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第八章 祈りの道 六節

挿絵(By みてみん)


六節


 キサーラは、答えなかった。


 頷きも、せず。首を、振りも、せず。彼女は、静かに、その場に膝を折った。石の台の上の、礼の形の長老と…同じ高さに、目を揃えるために。それから、彼女は問うた。声を、低く。刃ではなく、掌を差し出すように。


「…あなたは。幾星霜、待つ間に…一度も、疑わなかったのですか」


 房の拍が、乱れた。


 どく、どく…と、二つ、続けて打った。


 長老は、動かなかった。熱を視る眼は、キサーラに注がれたまま。ひび割れた口もとの笑みだけが…ゆっくりと、消えていった。永い、永い、沈黙だった。ミラは、自分の心の臓の音が房に響いてしまうのではないかと、思った。


 やがて。


「…視えて、おるのじゃな」と、長老は言った。声から、復命の張りが抜けていた。「その眼には。…儂の熱の、いちばん底の…(おり)のようなものが」


 彼は、痩せた腕を震わせながら上げ、石の台の縁を指した。台の下。壁の、あの、幾千の刻み文字の、どれも届かぬ…床とのあわいの、暗がりを。


「…そこに。誰の眼にも、触れぬ、そこに。…一行だけ、刻んだものが、ある」


 ミラが、灯を寄せた。膝をつき、覗き込む。台の裏の冷たい岩肌に…それは、あった。他のどの文字よりも、小さく。浅く。刻んだというより、引っ掻いた傷を幾百年なぞり続けて、ようやく文字の形を保っているような…一行。


 **…まことに、戻られるのか。**


「…疑いを、抱いた」と、長老は言った。告解の声だった。「誓いの民の長老が。里じゅうの信の要石が。…眠りの中で、疑いは、育った。目覚めるたびに、声が、大きくなった。ゆえに、儂は…眠りを、深くした。覚める間を、延ばした。疑いから…逃げるために、眠ったのじゃ。壁には、刻めなんだ。刻めば、次に房を検める者が、読む。儂の疑いは、里の信を、崩す。…ゆえに、台の下に。恥のように。(きず)のように。…幾百年、独りで」


 誰にも言えなかった、と、その声は言っていた。里の誰にも。同胞の誰にも。壁の八百と十四の名にすら。


 キサーラは、その告白を遮らなかった。急かしもせず、慰めもせず…ただ、受け取った。全部を受け取ってから、彼女は口を開いた。


「…私も、あなたに、告げなければならないことが、あります」


 静かな声だった。逃げも、飾りも、ない。


「私は…迎えでは、ありません」


 どく…と、拍が一つ、打った。


「あなたの眼が視た熱は、間違いでは、ない。私は、天へ発った者たちと…同じ根から、来ました。けれど、月の者では、ない。もっと…遠くから。あなたがたを、迎えに来た者では、ありません。それどころか」彼女は、そこで初めて、僅かに言葉を切った。切って、それでも、続けた。「…私の識るかぎり。月は、迎えを…寄越すつもりが、あったとは、思えない。あの日の声が、まことの約定だったのか、それとも…去る者の後ろめたさが、口にした、ただの言葉だったのか。それすら、私には、判らない。…判らないことを、判ると言って、あなたの幾星霜に、報いることは…私には、できません」


 嘘は、なかった。希望の飾りも、なかった。ただ、彼女に言える、まことの、すべてが、あった。


 長老は、長いこと、黙っていた。


 それから…ひび割れた口から、音が漏れた。ミラは、最初、それを嗚咽(おえつ)かと思った。違った。笑い声だった。乾いた、砂の崩れるような、静かな、静かな笑い。


「…ああ。…ああ、やはり、な」


 その声に、崩れる響きは、なかった。むしろ…何かが、ほどけていく響きが、あった。


「…礼を、言う。旅の方よ。…幾星霜。誰もが、儂に、信を、求めた。里の者は、揺るがぬ長老を、求め。帝の司祭どもは、都合のよい生き証人を、求め。…誰ひとり。儂の、この、台の下の一行を…看てくれる者は、おらなんだ。…疑うても、よい、と。判らぬものを、判らぬと言うても、よい、と。…そう言うてくれたのは、幾星霜で…お前様が、初めてじゃ」


 彼が欲していたのは、迎えでは、なかったのだ。


 ミラには、それが痛いほど判った。この方が、幾百年、待っていたのは、船でも、恵みでもなく…台の下の、あの小さな一行ごと、おのれを看てくれる、誰かだった。


「…じゃが」と、長老の声が、ふいに小さくなった。復命の張りも、ほどけた響きも消え、迷子のような、幼い声が、そこに残った。「…では。我らの、幾星霜は。…門で果てた、八百と十四は。…磨き続けた、柱は。…待ち続けた、この儂は。…無駄で、あったか」


 キサーラは、答えられなかった。


 それは、知の届く問いでは、なかった。まことを言えば…来ぬ迎えを待った歳月を、無駄でないと証す理屈を、彼女は持たなかった。遠い半身も、沈黙していた。


 答えたのは…ミラだった。


「無駄なんかじゃ、ない」


 気づけば、立ち上がっていた。条も、作法も、忘れて。声が震えて、涙がこぼれて、それでも、彼女は言った。


「だって…だって、あたしたち、砂海で、死にかけてたんです。水が、尽きて。そしたら、ジャベさんが…あなたの、掟を守る人が、来て。自分の最後の水を、差し出したんです。見ず知らずの、余所者に。渇く者に、背を向けるなって。…その掟は、誰が、幾星霜、守り継いだんですか。あなたたちが、待ち続けたから…待つために、分かち合い続けたから、掟は、生きてたんでしょう? あたしたちは、その掟に、命を、救われたんです」


 彼女は、涙を拭いもせずに続けた。


「約定された水は、必ず来るって…あなたたちは、(とな)えてきた。その水なら…もう、来てます。ずっと、来てたんです。上から、降るんじゃなくて。渇いた誰かの前に、革袋を差し出す、その手から…幾星霜、途切れずに。…それが、無駄だなんて、言わせない。月にだって、言わせない」


 房が、静まった。


 長老の熱を視る眼が、ミラへ向いていた。その、温かい、揺らめく、人の子の熱を、永いこと、視ていた。


 そして…長老の閉じた瞼の縁に。


 小さな、光るものが、盛り上がった。


 涙の僅かな民。汗もかかず、身の水を一滴も無駄にせぬように造られた民の、その、乾いた眼から…一粒だけ。それは、鱗の頬をゆっくりと伝い、顎の先で震えて、落ちた。石の台が、その一滴を吸った。


 この民にとって、それが、どれほどの支払いか…ミラは、後になって、ジャベに聞いて知ることになる。砂海の民は、泣かぬのではない。泣けぬのでもない。**身の内の水は、里の水**。それを一滴こぼすことは、里の掟における、最も重い、捧げものなのだと。


「…水ならぬ水、か」と、長老は呟いた。「…渡り手の若者が、里の子に、説いたそうじゃな。待つ者は、綱じゃと。…評定の声は、この底まで、岩を伝うて、聞こえておったよ」


 彼は、背筋をもう一度、正した。復命の礼の形に。されど、今度のそれは、詫びの形では、なかった。


「…旅の方よ。そして、涙の娘よ。儂は、決めた」


 声に、火が灯っていた。残りの、少ない火が。


「里には…迎えが来た、とは、告げぬ。…代わりに、儂の最後の勤めを、果たす。柱の裾の七つの門。その、まことの開き方。司祭どもが、意味も知らず、なぞっておる祈りの、まことの姿。…儂は、この身で、守った者じゃ。すべて、この、うろ覚えならぬ、刻んだ記憶の内に、ある。…夜通し、語る。持ってゆけ。祈りの道を、ゆく者らよ」


 そして、彼は、僅かに身を乗り出した。声が、初めて…願いの色を帯びた。


「…代わりに、一つだけ。頼まれては、くれぬか」


「…何なりと」と、キサーラは言った。


「儂は、次の眠りから…もう、覚めぬやも、しれぬ。…お前様は、柱を、昇るのじゃろう。天へ発った者らと、同じ根の、その足で。…ならば」


 長老は、壁を…八百と十四の名の刻まれた壁を、指した。


「…届けてくれぬか。儂の復命を。上の者らに。船はことごとく昇りきり、柱は守り抜かれ、誓いは破れなんだ、と。…そして、名を。八百と十四の名を。…迎えは、要らぬ。もう、要らぬ。じゃが、報告だけは…受け取られねば、ならぬ。務めは、受け取られて、初めて、終わるのじゃ」


 キサーラは、その願いを、まっすぐに受け止めた。


 約定を破られ続けた民の、最後の一人からの…約定の願い。彼女は、膝を折ったまま、深く頭を垂れた。この地に降りてから、誰に対しても、したことのない深さで。


「…お約定します。必ず、届けます。八百と十四の名も。あなたの名も。…私は」


 彼女は、顔を上げた。黄金の目が、灯を映して、静かに燃えていた。


「…約定を、破らない者の側から、来ましたから」


 それは、遠い半身への、宣言でも、あったのかもしれない。月への、宣戦でも、あったのかもしれない。


 長老は、笑った。そして、壁の名のいちばん初めの一つを、指でなぞりながら、語り始めた…幾星霜の、いちばん初めから。灯は細く、夜は深く、砂の海の遥か底で、その声は、朝まで途切れなかった。



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