第八章 祈りの道 五節
五節
扉は、旧き素材で、できていた。
滑らかで、継ぎ目がなく、灯を鈍く呑む…西の門で、ガルドの板が光ったのと同じ、あの、遠い世の肌。ジャベは、その前で足を止めた。
「…儂は、ここまでじゃ」と、彼は言った。「条の、とおりに。呼ぶな。触れるな。…ただ、待て。あの方の火が、選ぶまで」
扉は、音もなく、内へ開いた。
冷たい、乾いた気が、流れ出てきた。ミラの吐く息が、初めて、白く曇った。地の底の、そのまた底に、冬が一つ、蔵われているようだった。
二人は、入った。扉が、背後で閉じた。
房は、広くは、なかった。岩を刳り貫いた、丸い、静かな空洞。その中央の石の台の上に…それは、いた。
最初、ミラには、それが生きものだとは、判らなかった。岩の上に、岩がもう一つ、横たわっているのだと思った。鱗は、もはや、砂の色をしていなかった。白く、半ば透きとおり、塩の結晶か、石英のように、灯の僅かな光を内に溜めて、鈍く輝いていた。身体は、緩く丸められ、幾星霜の眠りの姿のまま、微動だにしない。霜が…否、塩の細かな華が、その鱗の上に、薄く降り積もっていた。
どく…………………………………………………………………………………………………………………………どく…………………………………………………………………………………………………………………………
あの拍だけが、生の証だった。
そして、ミラは、壁を見て、息を呑んだ。
房の岩壁という岩壁が…文字で、埋まっていた。爪か、石の欠片で刻んだ、細かい、細かい、引っ掻き傷の文字。古い刻み目は、摩耗して浅く、その上に新しい刻みが重なり、それがまた古びて、その上に…幾層にも、幾層にも。眠りと眠りのあわいの、僅かな目覚めのたびに、この方は、刻んできたのだ。忘れぬために。数を。名を。誓いの、言葉を。
そして、石の台の枕辺に当たる、一箇所だけ。
他のどの刻みよりも深く、太く、幾度も、幾度も、同じ溝をなぞって彫られた、一行があった。
**…よくぞ守った。必ず、迎えに戻る。**
ミラの喉の奥が、熱くなった。声を、出しては、ならぬ。彼女は、口を両手で押さえた。
二人は、待った。
条の、とおりに。呼ばず、触れず、ただ、立って。灯は、一つ。時の経つのが、判らなくなる。ミラは、やがて、冷えた床に膝を抱えて座った。キサーラは、立ったまま、動かなかった。彼女は、動かぬことにかけては、誰よりも静かだった。息すら要らぬ身は、房の冬のような静けさと、一つに溶けた。
どれほど、経ったか。
…どく…………………………………………………どく…………………………………………………
ミラは、顔を上げた。
拍が。速く、なっている。
いや、速い、というには、あまりに緩やかだ。されど、確かに…幾十を数えて一つ、だったものが、幾十を数えぬうちに、一つ、打つようになっている。岩を伝う、その響きが、少しずつ、少しずつ、間を詰めてくる。
白い鱗の上の塩の華が…ぱき、と、微かな音を立てて罅割れた。
丸められた身体の輪郭が、ほんの僅か、動いた。
そして、音がした。長い、長い、擦れるような音。錆びた鞴が、幾星霜ぶりに風を呑むような…息だった。最初の息。往きて、還る、砂海の民の深い息が、乾いた胸の内で軋みながら、目を覚ましてゆく。
閉じた瞼の…その外側の硬い、透きとおる膜が、ゆっくりと、横に滑った。
二人は、動かなかった。条の、とおりに。
長老の額が、僅かに持ち上がり…目と鼻のあわいの、熱を視る眼が、房の中を緩やかに彷徨った。ミラの上を、通り…温かい、揺らめく、人の子の熱…そして、キサーラの上で。
止まった。
白い、半透明の身体に、震えが走った。
弱った身体が、動こうとしていた。ミラは、思わず腰を浮かせかけ…唇を噛んで、堪えた。触れては、ならぬ。長老は、震える腕で石の台を押し、幾度も崩れかけ、幾度も、また、押し…永い、永い時をかけて、その上体を起こした。そして、崩れるのではなく、折り目正しく、両の膝を揃え、痩せた背を伸ばし…礼の形になった。
幾星霜の底から目覚めた者が、最初に取った姿が…復命の礼だった。
「…………………………もう、しわけ…ござりませぬ」
声は、砂が崩れるようだった。使われなかった喉が、一語ごとに軋んだ。
「…お出迎えも、仕らず…かような、寝姿を…」
キサーラは、答えなかった。答えては、ならぬのではない。…答えられ、なかった。彼女の額の奥で、遠い半身が、凍りついたように静まり返っていた。
長老の熱を視る眼は、じっと、キサーラに注がれていた。そして、その、しわがれた声が、震えを帯びた。
「…その、熱。…忘れも、せぬ。夢の中でも、忘れなんだ。…天へ、発たれた、方々の。あの…静かな、澄んだ、熱にござります。…ようやく。ようやく、参られた」
彼は、深く頭を垂れた。そして、幾百年、誰にも捧げられなかったものを、捧げ始めた。
「…復命、仕りまする」
背筋が、伸びた。声から、震えが消えた。刻み続けた壁の文字を、そのまま読み上げるように…一語も違えぬ、報告だった。
「船は…ことごとく、昇りきり申した。ひとつも、墜ちず。ひとりも、遺さず。…柱は、守り抜き申した。炎からも。押し寄せる、群れからも。裾の七つの門は、ひとつも、破られており申さぬ。…我が同胞、八百と、十四が、門にて、果て申した。名は…すべて、この壁に。ひとりも、忘れており申さぬ」
どく…どく…と、拍が打つ。
「…誓いは、破れており申さぬ。我らは、待ち申した。眠りては、覚め、覚めては、磨き、磨きては、また、眠り…。帝が、参られ、掟が、鋳直され、同胞が、柱守の聖職とやらに、なりかわっても…この、いちばん底の誓いだけは、渡しており申さぬ。…遅う、ござりましたな」
その言葉に、恨みの色は、なかった。それが、いちばん、聞くに堪えなかった。
「…いや。申しますまい。約定された水は、必ず、来る。…こうして、来られたのじゃから」
長老は、頭を上げた。熱を視る眼が、まっすぐにキサーラを視た。そして、その、ひび割れた口もとが…笑った。幾星霜を待ち尽くした者の、静かな、静かな笑みだった。
「…して。お伺い、仕りまする」
声に、力が灯った。残り少ない火を、惜しげもなく、この一問に注ぎ込むように。
「里の者どもを、起こしまするか。…砂海じゅうの、同胞に、触れを、出しまするか。…迎えの日が、来た、と。約定は、果たされた、と。…皆に、告げても、よろしゅう、ござりまするか」
房の冷たい静けさの中で。
その問いだけが、灯のように燃えていた。
ミラの押さえた両手の指のあわいから、嗚咽が漏れそうになった。彼女には、判ってしまった。この問いに、頷けば…嘘になる。首を、振れば…幾星霜の、この、正しい待ち人の、すべてが。
キサーラは、静かに口を開いた。
遠い半身は、何も告げてこなかった。識っていることのすべてが、いま、何の力にもならなかった。
彼女が頼れるものは…この旅で、学んだものだけ、だった。




