第八章 祈りの道 四節
四節
評定は、里のいちばん広い房で開かれた。
一行は、そこへは入れられなかった。岩を刳り貫いた広間の、閉じた石戸の向こうから、声だけが届いた。低く、乾いた、幾つもの声。沙蛇の民の評定は、声を荒らげぬ。されど、石戸越しにも、判った。…割れている、と。
「…守りの長たちが、渋っておる」と、ジャベが、石戸の前から戻ってきて言った。「理は、立っておるのじゃ。曰く…余所者を、深房へ、通した例は、ない。曰く…あの者の熱は、人のものに非ず、月の手先やも知れぬ。曰く…」彼の二又の舌が、重く出て、引っ込んだ。「…長老の残り火は、里の宝。旅人の問い一つに、費やしてよいものでは、ない、と」
「…どれも、正しい」と、キサーラは静かに言った。
「ああ、正しい」ジャベは頷いた。「正しさと、正しさが、ぶつかっておるゆえ、評定は、長い。…待つがよい。砂海の評定は、水と、同じじゃ。急かせば、涸れる」
待つ間、一行は、里の広い段に腰を下ろしていた。
セレナは、壁の旧き灯に掌をかざし、その、囁くような微かな精靈の声に、耳を澄ませていた。ガルドは、水路の雫を集める仕掛けに見入って、時折、感嘆とも呻きともつかぬ音を漏らした。ロウは、地の下の匂いのあまりの多さに鼻を麻痺させ、諦めて、寝ていた。
ドレクは…子らに、囲まれていた。
余所者、というものを、里の子らは、初めて見るのだった。鱗のない、肌。丸い、瞼。ちろちろと動かぬ、一枚舌。子らは、最初、遠巻きに舌だけをそよがせていたが、やがて、一人が、二人が、寄ってきて、ドレクの日に灼けた腕に、恐る恐る、触れた。
「うわ、やわらけえ」「鱗が、ないぞ」「昼に、外を、歩いたら、死ぬんじゃないのか」
「死なねえよ。…いや、死ぬかな。危ねえとこだった」ドレクが大真面目に答えると、子らは、笑った。笑い声は、人の子と、同じだった。
その輪の、いちばん外に。
一人だけ、笑わぬ子が、いた。
小さな、女の子だった。鱗の色が、まだ淡く、砂の色になりきっていない。膝を抱え、閉じた瞼を床に向けている。他の子らがはしゃぐほど、その子の抱えた膝は、固くなった。
ドレクは、それに気づいた。気づいて…騒ぎ立てなかった。渡り手は、荷の傷み方を見抜くのと同じ目で、人の傷み方を見る。彼は、子らの相手をしながら、少しずつ、少しずつ、腰の位置をずらし、やがて、気づけば、その子の隣に座っていた。
「…嬢ちゃんは、触らねえのか。この、やわらけえ腕」
女の子は、首を振った。それから、ぽつりと言った。
「…あした、はじめての、眠りなの」
ドレクは、すぐには意味が判らなかった。傍らの年嵩の子が、教えた。里の子は、育つと、初めての長い眠りに入るのだと。ひと冬か、ふた冬か。身の火を細めて、地の底で眠る。それを越えて、初めて、砂海の民になるのだと。
「こわい」と、女の子は言った。膝を抱えたまま。「眠ったら…みんなのこと、忘れちゃったら、どうしよう。目が、覚めたら、母さまの匂いが、判らなくなってたら、どうしよう。…ずっと、ずっと、眠りっぱなしに、なったら」
子らが、静かになった。誰も、笑わなかった。皆、同じ怖さを越えてきたか、これから、越えるのだった。
ドレクは、暫く黙っていた。それから、頭を掻いて言った。
「…俺にはな、妹が、いるんだ。リナってんだ。ずっと、遠くの、西の町で、俺の帰りを、待ってる」
女の子の閉じた瞼が、少し、上を向いた。
「俺は、渡り手だからよ。半年も、一年も、帰らねえ。妹から見りゃ、俺は、いなくなってるのと、同じだ。…でもな、不思議なもんでよ。どんなに、遠くにいても、どんなに、長くかかっても…帰り道ってのは、迷わねえんだ。なんでだと、思う?」
女の子は、首を振った。
「待ってる奴が、いるからだ」ドレクは、自分の胸を、拳で、こつんと叩いた。「待ってる奴ってのはな、こう…見えねえ、綱みてえなもんでよ。俺が、どこで、道に迷っても、腹あ減らして、へたばっても、この、胸のとこを、ずうっと、引っ張ってやがる。だから、帰れる。…眠りも、きっと、同じだろ。嬢ちゃんが、眠ってる間、母さまが、待ってる。里のみんなが、待ってる。そんだけの綱に、引っ張られてよ…帰り道を、間違える奴が、いるかよ」
女の子は、暫く、じっとしていた。
それから、小さな鱗の手を伸ばして、ドレクの腕に触れた。「…やわらかい」と言って、初めて、少し、笑った。
「だろ」と、ドレクも笑った。「約定すらあ。嬢ちゃんが、目を覚ます頃…俺は、もう、この里には、いねえだろうけどよ。どっか、遠くで、ちゃんと、思い出してやる。砂の下で、頑張って、眠ってる、ちっこいのが、いたなあって。…それも、綱の一本にしな。細くても、綱は、綱だ」
…石戸が、いつから開いていたのか。
誰も、気づいていなかった。
戸口に、老母が立っていた。腰の曲がった、白い鱗の、里の母が。閉じた瞼を、ドレクと女の子のほうへ向けて。どれほど、そこにいたのか。額の熱を視る眼は、闇の中でも、視る。人の頬にのぼる、血の熱を。子の怖さが解けてゆく、そのぬくもりを…あの眼は、声よりも確かに、視ていたはずだった。
老母は、何も言わずに…評定の広間へ、戻った。
半刻の後。石戸が、大きく開いた。
長たちが並ぶ、その真ん中で、老母は、一行を前に据え、しわがれた声で告げた。
「…評定は、割れた。守りの長らの、理は、正しい。余所者を、深房へ、通せば、月の目を、引きかねぬ。長老の残り火は、里の宝。…儂も、半刻前までは、否と、言うつもりで、おった」
一行が、身を固くする。
「じゃが」老母の閉じた瞼が、ドレクへ向いた。「儂は、視てしもうた。…我らは、幾星霜、誦えてきた。約定された水は、必ず来る、と。待つことこそ、我らの、信。…その待つことの、まことの姿を、余所者の口が、里の子に、説いておった。待つ者は、綱である、と。眠る者を、迷わせぬ、綱である、と」
老母は、深く息を吸った。往復の長い、砂海の民の息を。
「水だけが、分かつものに、非ず。…お前たちは、渇いた我が子に、水ならぬ水を、分かった。掟は…これに、報いねばならぬ」
守りの長の一人が、何か言いかけ…老母が、掌を上げて制した。
「案ずるな。条を、付ける」その声は、裁く者の声に戻っていた。「深房へ、通すのは、静かな熱の者と…あと、一人のみ。そして、これが、いちばんの、条じゃ。**長老を、起こしては、ならぬ**。呼びかけも、触れることも、ならぬ。扉の内で、ただ、待て。…あの方の火が、お前たちの、気配に、おのれから、揺らぐなら。目覚めは、あの方の選びじゃ。里の選びでも、お前たちの、選びでも、ない」
キサーラは、静かに頭を下げた。
「…承ります。その条の、すべてを」
同行の一人を、選ばねばならなかった。キサーラは、迷わなかった。ミラを、見た。ミラも、頷いた。言葉は、要らなかった。もし、深房で、言葉が力を失う時が来るなら…その時、要るのは、剣でも、知でもない。それを、一行の誰もが、もう、識っていた。
その夜、深房への下りの道の入口で。
ジャベが、灯を掲げて待っていた。彼は、二人を視て、それから、ぽつりと言った。
「…儂の誓いが、扉を、叩き。渡り手の情が、扉を、開けた。…理屈で、開かなんだ扉が、な」
彼は、先に立って、闇の階を降り始めた。灯が揺れ、二人の影が、旧い岩肌の上を、ゆっくりと滑ってゆく。
下るほどに、空気は、冷たく、静かになった。里の気配が遠のき、水路の雫の音も絶え…やがて、聞こえるものは、ただ、一つになった。
どく…………………………………………………どく…………………………………………………
遠い、遠い、拍。幾十を数える間に、一つ、打つかどうかの、緩やかな…心の鼓動。岩を伝い、階を伝い、足の裏から昇ってくる。
キサーラの額の奥で、遠い半身が、息を詰めた。
扉は、まだ、見えない。
ただ、その拍だけが…幾星霜の底から、静かに、二人を迎えていた。




