第八章 祈りの道 三節
三節
水の精靈は、砂の深くに、いた。
小さな精靈だった。かつて、この窪地が、まだ涸れ川の名残を湛えていた頃の。緑が退き、川が消え、祈る者も絶えて…それでも、砂の底の僅かな湿りに、しがみつくように、眠っていた。
キサーラは、砂に手を置いた。
塩の果ての井戸の時のような、長い解きは、要らなかった。この精靈は、こじれては、いなかった。ただ、忘れられていただけだった。彼女の指先から、静かな呼び声が降りてゆき…やがて、砂が、僅かに色を変えた。窪みのいちばん深いところに湿りが滲み、それは、ゆっくりと、掌に汲めるほどの水になった。
湧き水、とも、呼べぬ。にじみ水。それでも…水だった。
鱗の者は、その一部始終を、閉じた瞼の奥から視ていた。二又の舌が、一度だけ、ちろりと空を舐めた。水の匂いを、確かめるように。それから、彼は、革袋を砂に置き、両の掌を窪みの水に浸して…呑む前に、まず、こう誦えた。
「…水は、誰のものでもなく。渇く者の、ものである」
そして、呑んだ。長い、長い、一口を。しわがれた喉が波打つのを、ミラは見ていた。どれほど、渇いていたのか。最後の水を差し出した、その手が。
「…ジャベ、と、いう」呑み終えて、鱗の者は、初めて名を名乗った。「砂海の古き道の読み手だ。…約定どおり、里へ案内しよう。じゃが、その前に、一つ、教えておく」
彼は、痩せた指で、砂丘の彼方を指した。何も、ない。金色のうねりが、あるだけ。
「あの、丘の三つ向こうに。帝の、水の道が、通っておる。石で、囲われ、封をされ、量り手が、立つ。水は、あの道を、通ってしか、動いてはならぬ…それが、帝の律法じゃ。近づけば、問われる。何者か。水を、幾ら、持つか。…お前の、その、掌の水も」ジャベの閉じた瞼が、キサーラへ向く。「律法の外の水、として、咎められる。恵みが、罪に、なるのじゃ。この地では」
「…水を分かつのが、掟なのでしょう」ミラが言った。「あなたが、そう」
「掟は、二つ、あるのじゃよ、娘」ジャベの声に、初めて、乾いた笑いのようなものが混じった。「古い掟と、鋳直された掟と。…古い掟は、言う。渇く者に、背を向けるな、と。鋳直された掟は、言う。水は、序に従って、上から、降る、と。…同じ、水の掟じゃ。同じ言葉から、造られておる。じゃが、芯が、すり替わっておる。我らが、往くのは」彼は、水の道とは逆の丘の陰を指した。「古い掟の道じゃ」
一行は、夜に歩き、昼に影に伏せた。
ジャベの道の読みは、精妙だった。星を、見ず、風を、見ず…砂を、視た。丘の稜線の、崩れ方。砂粒の粗さの、変わり目。額の奥の熱を視る眼が、砂の下の岩の背を、昼の熱の名残で視分けるのだと、いう。「砂は、動く。じゃが、砂の下の骨は、動かぬ。道は、砂に、引くのではない。骨に、引くのじゃ」
三夜目の明け方。
丘と丘との狭間の、何の変哲もない砂の斜面で…ジャベは、止まった。そして、砂に膝をつき、二又の舌で地を舐め、それから、拳で、砂の下の何かを、三度、緩く、二度、強く、叩いた。
砂が…開いた。
崩れたのでは、ない。斜面の一部が、内側へ、口を開けたのだ。石の蓋。砂の色に、装われた。その奥に、下りの階が、闇へと続いていた。
「…ようこそ」と、ジャベは言った。「砂の腹の中へ」
地の下は、涼しかった。
それが、まず、ミラを驚かせた。あの竈のような地表から、階を幾つか降りただけで…空気が、変わった。ひんやりと、静かで、微かに湿っている。壁は、砂ではなく、古い堅い岩を刳り貫いてあり、その岩肌に、掌ほどの灯りが点々と埋め込まれて、淡い、乳色の光を放っていた。火では、なかった。ガルドの額の板と、同じ光り方だった。ガルドの喉が、鳴った。
「旧き、灯だ」ジャベは、こともなげに言った。「柱と、同じ頃の。…我らは、造れぬ。ただ、守り方だけを識っておる。灯が、絶えれば、その房を、閉じる。それだけじゃ」
道は、下るほどに広がり、やがて…里が、あった。
岩を刳り貫いた、幾層もの房。細い水路が壁を伝い、雫を集める仕掛け。子らが走り、老いた者が、鱗の手で、乾いた実を選り分けている。皆、ジャベと同じ、鱗の民だった。そして、一行が通ると…誰もが、手を止めた。閉じた瞼が、一斉に、こちらを向く。声は、ない。ただ、幾十もの二又の舌が、ちろり、ちろりと、空気を舐める。余所者の匂いを。そして…キサーラの、あの、静かすぎる熱を。
ざわめきは、音にならなかった。けれど、確かに、里を走った。
一人の老いた女が、進み出た。鱗は、色褪せ、白く粉を吹き、腰は曲がっていたが…その足取りには、揺るぎがなかった。里の母、と、ジャベが小さく告げた。
老母は、キサーラの前に立ち。閉じた瞼の奥から、長いこと、視た。額の熱の眼で。それから、ジャベへ、しわがれた声で問うた。
「…ジャベよ。これは、何じゃ」
「渇いた、旅人じゃ」と、ジャベは答えた。
「人では、あるまい」
「人では、なかろうな」ジャベは、否まなかった。「じゃが、儂は、視た。この者、砂の底から、水を、呼び…その水を、まず、儂に、呑ませた。おのれは、一滴も、口に、せず。…母よ。掟は、問うたか。渇く者が、何者であるかを」
老母は、黙った。長い、沈黙だった。里じゅうの舌が、宙で止まっていた。
やがて、老母は、言った。
「…掟は、問わぬ」
それが、裁きだった。里が、音もなく緩んだ。子らが、また走り出した。
その夜…地の下に、夜も昼もないが、里は、地表の刻に合わせて灯を細めた…一行は、温かい実の粥と、澄んだ水を振る舞われた。ドレクが、器を両手で抱え、少し、泣いた。リナの分まで、と、呟いて。
食の後、ジャベは、キサーラだけを手招きした。…いや、キサーラと、そして、なぜか、ミラを。
「お前は、柱へ、往くのじゃろう」と、ジャベは、灯を細めた房の隅で言った。「南へ、南へと、視線が、往っておる。…止めは、せぬ。じゃが、識っておくがよい。柱への道は、祈りの道。帝の律法の、いちばん、奥の芯じゃ。水の道より、なお、堅い。あそこを、通る者は、身も、心も、量られる。…通り抜ける、術は、我らには、ない」
「では、なぜ」キサーラは、静かに問うた。「私たちを、ここへ」
ジャベの二又の舌が、ゆっくりと出て、引っ込んだ。逡巡い、のように見えた。誓いの民が、言葉を口にする前の、重さだった。
「…この里の、いちばん、深い房に」と、彼は言った。声が、一段、低くなった。「眠っておられる方が、ある。幾百年を、眠り継ぎ…もう、幾十年、目覚めておられぬ。次に、目覚めるかも、判らぬ。目覚めれば、その分だけ、残りの、火が、細る。ゆえに、里は、誰も、起こさぬ。起こしては、ならぬ」
「…その方が、何を」
「視たのじゃ」ジャベの閉じた瞼が、震えていた。「いちばん、初めを。柱が、まだ、天への、港であった頃を。滅びの、日を。そして…」
彼は、そこで言葉を切った。房の灯が、微かに揺れた。
「…帝の正史は、言う。神王は、荒ぶる世界蛇を、締め伏せ、その背に、御国を、築いた、と。我らは、初めから、帝に、跪いていた、と。…じゃが、長老は。あの方だけは。その耳で、聞いておられる。柱の扉が、閉じる、その時に。上から、降ってきた…声を」
キサーラの額の奥で。
遠い半身が…また、静かになった。今度は、言葉を失った静けさでは、なかった。息を詰めて、耳を澄ます者の静けさだった。
「なんと、言ったのですか」と、ミラが囁いた。
ジャベは、答えなかった。答える代わりに、彼は立ち上がり、房の奥の闇へと、灯を掲げた。下りの道が、そこにあった。里の、どの道よりも古く、どの道よりも深くへ。
「…明日、母と長たちが、評定する。お前たちを、あの房へ、通すか、否かを」と、彼は言った。「儂は、通すべきだと、言う。誓って、言う。…なぜなら、お前の、その、静かな熱を、視た時から。儂には、思えてならぬのじゃ」
閉じた瞼が、キサーラを視た。
「約定された水は、必ず、来る、と…我らは、幾星霜、誦えてきた。…お前は。その、約定の側から、来た者では、ないのか、と」
灯が、揺れた。
地の底の里の、遥か上で。砂の海は、夜の風に、音もなく稜線を書き換え続けていた。




