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第八章 祈りの道 二節

挿絵(By みてみん)


二節


 山を越えるのに、十日を要した。


 旧きマグリブの赤黒い山並みは、荒れ果てていた。木はまばらで、幹は乾き、()じくれ、岩は陽に()けて、(ひび)割れていた。海を殺せば、雨も死ぬ…ガルドの言葉は正しかった。北の面には、湿りの名残さえなかった。


 ただ、峠のいちばん高いところにだけ、水があった。


 西から…なお生きている、大きな海のほうから、届く微かな湿り。それが、高みで凍り、朝には、岩の窪みに、薄い氷を張った。夜は、骨まで凍えた。ロウが、皆を、その大きな体で囲い、ガルドが、乾いた枝で心もとない火を(おこ)した。一行は、革袋という革袋に、その氷解けの水を、満たせるだけ満たした。


「…ここが、最後だ」と、ドレクが言った。渡り手の勘が告げていた。「この先は、水のねえ地だ。あるのは…」


此所(ここ)に有る、水だけ…」と、ガルドが継いだ。


 峠を南へ下ると。


 世界が変わった。


 眼下に、白でも赤でもない、金色の大海原が、地平の果てまで広がっていた。砂の海。うねる砂の丘が、幾重にも、幾重にも、陽炎(かげろう)の彼方まで。乾いた海の白い荒野とも、違う。あれは、死んだ海の底だった。これは…生きて、動いている。風のひと吹きで、丘は形を変え、稜線(りょうせん)を書き換え、足跡を飲み込んでゆく。


「…でかい」ロウが、唸った。「鼻が、全然利かねぇ。塩とは違う。ここは…匂いが、多すぎて狂う。焼けた砂と、獣の骨と、遠い水の気配と。全部が、混じって、渦を巻いてる」


 セレナも、蒼ざめていた。「精靈(アーコン)が…乱れています。ここは、幾度も死んで、幾度も甦った地。緑だった記憶と、砂に呑まれた記憶が、幾層にも重なって…声が揃わない」


 一行は、砂海へ踏み込んだ。


 三日で、峠の水は底を突きかけた。


 昼は、灼熱が砂を(かまど)へと変えた。夜は、その砂がたちまち凍えた。方角は、キサーラの遠い記憶だけが識っていた。南へ。ただ、南へ。…されど、記憶は道を識っても、水の在り処までは識らぬ。彼女は、この地の精靈(アーコン)を探した。塩の果てで、最後の水の精靈(アーコン)を掘り当てたように。だが、砂海の精靈(アーコン)は、乱れ、狂い、彼女の呼びかけにも、(そろ)った答えを返さなかった。


 四日目の昼下がり。


 陽炎(かげろう)の揺れる、砂の丘の狭間に。


 何か、動かぬものがあった。


 岩か…と、思った。あるいは、枯れ木の影か。だが、近づくにつれ、それは、人の形をしていた。砂の色の外套を(まと)い、丘の陰の僅かな影に身を寄せて…微動だにせず、(うずくま)っている。


 ロウが、身構え低く唸った。「…生きてる。息をしてる。けど…匂いが変だ。獣でも人でもない。乾いた土のような…(うろこ)の匂い」


 その、(うずくま)るものが…ゆっくりと顔を上げた。


 人の顔だった。人の顔でありながら…人ではなかった。


 肌は、細かな(うろこ)に覆われて、砂の光を、鈍く弾いていた。落ち窪んだ、目。そして、その目が…ミラを凍りつかせた。(まぶた)が、閉じていたのだ。透きとおる、硬い(うろこ)の膜が。閉じていてなお…その奥の瞳が、こちらを視ているのが判った。閉じられた(まぶた)の、内から視られている。(まばた)きをせず。ただ…じっと。


 そして、その口から、細い二又の舌がチロリと走り。


 空を舐めた。


 一行の匂いを。空気に、溶けた、命の粒を。左から来たか、右から来たか、その一舐めで、読み取るように。舌は、また、口の中へ、消えた。


 誰も、動けなかった。


我等(われら)は砂漠の民…蛇鱗の民(ティ・アサド)


 やがて、蛇鱗の民(ティ・アサド)は、しわがれた…けれど、驚くほど澄んだ声で言った。人の言葉を。ゆっくりと、一語ずつ、砂を噛むように。


「お主ら…渇いて、おるな」


 それは、問いではなかった。ただ、視たことを、述べる声だった。


「日に、灼かれ、水を失い、南へ往く。…愚かな旅人よ」


 蛇鱗の民(ティ・アサド)は、外套の下から、革の水袋を取り出した。しなびて、ほとんど、空の。それを、震える手で掲げ、キサーラのほうへ差し出した。


「わずかだが。…分けて、進ぜよう」


 ミラが、息を呑んだ。この者自身が、渇いて、死にかけている。その、最後の一口を。見も知らぬ、余所者に。


「…なぜ」と、キサーラは訊いた。「あなたも、渇いている。これは、あなたの、最後の水でしょう」


 蛇鱗の民(ティ・アサド)の閉じた(まぶた)が、微かに動いた。(わら)ったのか、あるいは、呆れたのか。


「渇く者に、背を向けぬ。…それが、(おきて)だ」と、彼は言った。「今日、我が水を、分かてば。明日、渇いた我に、誰かが、分かつ。…そうして、我らは、この砂海を、幾星霜、渡ってきた。情け、では、ない。生きる、算段よ」


 乾いた、掟だった。優しさの形を、した。…けれど、それは、確かに、優しさ、だった。この、命の薄い地で、命を繋ぐための。


 キサーラは、その水袋を受け取り…けれど、口をつけなかった。代わりに、皆を見て、それから、蛇鱗の民(ティ・アサド)に、静かに言った。


「いただきます。けれど…あなたも、共に。私たちには、この先の水を、探す当てがあります」


 彼女は、砂のある一点を指した。丘の狭間の窪み。誰の目にも、ただの砂にしか見えぬ場所を。


「あそこの、深くに。旧い、水の精靈(アーコン)が、ひとつ。眠っています。…あなたの、掟に倣いましょう。渇く者に、背を向けない」


 蛇鱗の民(ティ・アサド)の舌が、ふたたび、チロリと出た。今度は、キサーラのほうへ。


 そして…止まった。


 二又の舌が、宙で静止した。閉じた(まぶた)の、奥の瞳が、初めて揺れた。彼は、額の目と鼻のあわいを、キサーラへ向けていた。そこに、熱を視る眼があった。人の頬にのぼる血の熱、首筋の火照(ほて)りを、闇の中でも、像として視る眼が。


 その眼に…キサーラが、奇妙に映っていた。


 人の形を、して。人の声で、語り。されど…その身から立ちのぼる熱は、人のそれと違う。冷たすぎるのでも、熱すぎるのでもない。ただ、**熱の紋様が、人のものではなかった**。生きた獣の放つ、ゆらめく熱ではなく。もっと静かで、もっと(なら)された…視たことのない、熱。


 蛇鱗の民(ティ・アサド)は、暫し、その紋様を視ていた。


 それから…ゆっくりと、舌を引っ込めた。判らぬものを、判ったと言わぬのが、砂海の古き作法だった。彼は、只こう呟いた。


「…お前は。人の皮を被った何かだな」


 一行が凍りつく。ロウの喉が鳴る。


「案ずるな」蛇鱗の民(ティ・アサド)は、しわがれ声で続けた。「掟は問わぬ。渇く者が、人か人ならぬかを。…渇いておれば、分かつ。それだけだ。…さあ、その、水の精靈(アーコン)とやらを視せてもらおうか。まことなら…お前たちを、我らの、隠れ里まで、案内(あない)しよう。この砂海で、月の目を逃れて、なお息づく者らの、もとへ」


 彼は、砂を噛むように、立ち上がった。緩やかに。心の拍を、ひとつ、ひとつ、確かめるように。


「里へ、往くなら…識っておくがよい。この先の砂海の道は、ことごとく、(みかど)の、水の律法の上にある。天へ架かる柱も、その、律法の、いちばん奥に、立っている。…水を、握る者が、道を、握り。道を、握る者が、我らの、命を、握って、おるのだ」


 キサーラは、その背に問うた。


「あなたがたは…何を、待っているのですか」


 蛇鱗の民(ティ・アサド)の歩みが、止まった。


 閉じた(まぶた)の、奥で。遠い、遠い、何かを、見るように。


「…約定された水は、必ず、来る」と、彼は言った。(とな)えるように。掟の、いちばん、聖なる一条を。「渇きに、耐えよ。分かち合え。序を、守れ。さすれば…約定された、恵みは、違わず、訪れる」


 その声には、疑いは、なかった。幾星霜を貫く、揺るがぬ信が、あった。


 けれど…キサーラの額の奥で。


 遠い、もうひとりの自分が、ひどく、静かになったのを、彼女は感じた。まるで、その「約定」の正体を識っている者が、言葉を失ったかのように。


 砂の海は、金色に、うねり続けていた。


 その、うねりの、遥か南に。天を衝く柱は、まだ、見えなかった。



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