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第八章 祈りの道 一節

挿絵(By みてみん)


一節


 西の門は、もう、背後の陽炎(かげろう)に沈んでいた。


 乾いた海の縁を、南へ。道は、登りに変わっていた。塩の底は、周りの大地より、低い。旧き海のいちばん深かったところから地上へ這い上がるには、かつての海の岸だった、幾千尺の断崖を登らねばならぬ。壁には、段が刻まれていた。人の手ではない。水の手だった。海が、少しずつ退いてゆくたびに、(みぎわ)の跡を、一段、また一段と、残していったのだ。


「…海の年輪だ」と、ガルドが、壁を見上げて言った。「一段、下がるのに、幾星霜。それを、幾つ、数えることか」


 登るほど、風が涼しくなった。底は、(かまど)だった。陽が、塩に()けた白い地を、二重に灼く。そこから一段登るごとに、息が楽になる。皮肉なことだ、と、ミラは思った。楽な道は、下ってゆく。生きる道は、登ってゆく。


 その、最初の野営で、それは、見つかった。


 塩漬けの干し肉の袋の、底。誰が積んだとも知れぬ、あの荷の、いちばん底から。ガルドの太い指が、それを摘まみ上げた。一片の紙。塩にくたびれ、端の擦り切れた。


「…何だ、こりゃあ」


 ドレクが、覗き込む。文字が、あった。細く、几帳面で、そして、署名の、ない、手跡。


 キサーラが、それを受け取り、火明かりに(かざ)した。読む。声には、出さず。それから、皆の顔をひとつずつ見て…静かに、読み上げた。


「…南へ。砂海の帝都を、目指せ。そこに、天を衝いて、雲の上まで消える、柱がある。民は、月の恩寵の降る聖なる軸と、崇めている。…それが、月へ昇る、ただ一つの、道だ」


 火が、()ぜた。誰も、口を挟まなかった。


「…物見は、身ひとつで、地に降りる。されど、物は、柱でしか、昇り降りせぬ。彼らの、着替えも、糧も。その、集まる場所こそ、月の地上の、喉首(のどくび)である」


 キサーラは、そこで一度、言葉を切った。最後の二行が、残っていた。


「…読んだら、焼け。…これは、施しではない。生涯で、二度目の割の合わぬ、商いだ」


 沈黙が、あった。


 やがて、ドレクが、乾いた声で笑った。「…あの吝嗇(けち)な商人が。ひと月の猶予に、道の在り処まで、付けて、寄越しやがった」


吝嗇(けち)、ではない」ガルドが、低く訂正した。「帳簿に、残さぬ。それが、あの男の精いっぱいの、大盤振る舞いだ」


 キサーラは、その紙を、火にくべた。細い炎が、几帳面な文字を端から舐めて、灰にした。もう、どこにも、残らぬ。売り手の名も。買い手の名も。…あの市の作法の通りに。


 その灰を、見つめながら。


 キサーラの額の奥で、何かが微かに(うず)いた。


 ――柱。


 知っている、と、思った。いや…思った、というより、思い出した…に近かった。誰の記憶か、判らぬ。おそらくは、彼女のものでは、ない。もっと、遠い。もっと、古い。凍てついた深みで、同じものを恋うている、もうひとりの自分の…。


 その、遠い記憶の、いちばん底に。


 白く輝く、都が、あった。天へ発つ者らの、都。その傍らに、天を衝く、一本の柱。人々は、それを、こう呼んでいた。**世界蛇(せかいへび)の、背骨**、と。天と地を、その身で繋ぐ、大いなる蛇の。


 その柱の裾を、蛇に連なり(うろこ)を持つ、静かな民が守っていた。乾きに耐え、誓いに堅い、民が。彼らは、柱を磨きながら、待っていた。何かを…あるいは、誰かを。


「…キサーラ?」


 ミラの声で、我に返った。皆が、彼女を見ていた。


「あなた、いま、どこか、遠くを、見ていた」


「…ええ」キサーラは、静かに答えた。「昔、そこに、天へ架かる(きざはし)があったことを。…思い出していました」


「昔って」ドレクが、眉を寄せる。「あんたが、生まれる、前の話じゃ、ないのか」


「ええ。私が、生まれる、ずっと、前の」


 彼女は、それ以上語らなかった。語れば、皆の識らぬ言葉に触れねばならぬ。…ただ、胸の内で、二つのものが重なるのを、感じていた。遠い記憶が言う、「柱は、在った」。商人の紙が言う、「柱は、今も、在り、月が、使っている」。在ったものと、在るものが、ひとつに結ばれて…初めて、それは、確かな道になった。


「南、か」と、ロウが(つぶや)いた。狼の男は、登ってきた崖の縁に立ち、南の空を嗅いでいた。「…遠いな。匂いが、届かねえ。砂と、それから…もっと、その先。緑の匂いが、微かに。ずっと、ずっと、向こうだ」


「どれほど、かかる」ガルドが訊いた。


 誰も、答えを持たなかった。


 ただ、キサーラの遠い記憶だけが、その距離を識っていた。乾いた海の縁から、赤道の緑の海まで。動かぬ岩盤の上に、柱は立っている。この星で、最も古く、最も揺るがぬ、大地の骨の上に。…幾月の道。灼ける砂海と、凍える夜と、水を握る者の律法の道。


 背後には、灰の下の火。ひと月で、露れる、嘘。そして、その嘘に呼ばれて、いずれ西の門へ向かう、青き髪の追っ手。


 行く手には、天を()く柱と、それを守る蛇鱗(じゃりん)の民。


「…行きましょう」と、キサーラは言った。この旅で、幾度、口にした言葉か。けれど、その響きは、少しずつ変わってきていた。観るために来た者の声から。守るために往く者の声へ。


 一行は、崖の縁を越えた。


 振り返れば、乾いた海が、白く広がっていた。あの底で、彼らは、世界を焼いた真相を見た。あの縁で、嘘を売る商人の良心を、掘り起こした。…もう、戻らぬ道だった。


 行く手には、旧きマグリブの荒れ果てた山並みが、黎明の光に赤黒く(そび)えていた。海を殺せば、雨も死ぬ。かつて旧き海がこの地に恵んでいた湿りは、幾星霜の昔に絶えていた。山の北面は、死んだ海の(かげ)だった。…その乾いた背骨を越えた、遥か南に。


 彼らの、まだ知らぬ、蛇鱗(じゃりん)の民が。


 果たされぬ約定を、いまも、待ちながら。


 天へ架かる柱を、磨いていた。



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