第七章 西の門 九節
九節
三日が、過ぎた。
上の市は、何も変わらなかった。触れは、今日も、蜜の声で月の恵みを謳い、店々は、今日も、豊かで虚ろな賑わいを売っていた。柱の館の主も、変わらぬ、はずだった。相場を量り、帳簿を繰り、美しき仕立てを売る…それが、彼の鎧であり、そしていまは、底の者らを覆う、屋根でも、あったから。
変わったものは、目に見えぬところに、あった。
底では、水が、黙って分けられていた。誰の指図でも、なく。破れた屋根が、いつのまにか繕われていた。誰の手柄にも、ならずに。子どもの笑い声が、一度だけ、灰の路地に転がって、大人たちが、慌ててそれを窘め…窘めながら、皆が、少しだけ、笑っていた。
火は、燃え上がらなかった。ただ、消えても、いなかった。灰の下で、熾のまま、静かに、赤い。それが、この市での、火の正しい生き方だった。
出立の朝、見送りは、なかった。
――ように、見えた。
一行が灰の坂を降りてゆくと、路地の口に、一人。水場の陰に、一人。壊れた荷車の脇に、一人。皆、目を伏せたまま、すれ違いざま、指の先だけで、そっと触れてゆく。袖に。荷に。手の甲に。声もなく、列も成さず…それが、この底の精いっぱいの、盛大な見送りだった。
最後の路地の口に、タゴが立っていた。
「…行くのか」
「ええ」と、キサーラは言った。
タゴは、痩せた喉を上下させて、言葉を探した。礼を言おうとして、やめたのが、判った。礼などという上等な品を、扱い慣れていないのだ。代わりに、彼は、ぼそりと言った。
「火は、絶やさねえ。…大きくも、しねえ。灰を被せて、細く、永く、だ。あんたが、教えた通りに」
「私は、教えていません」キサーラは、首を振った。「あなたたちが、始めたことです。私は、隣に、いただけ」
「…そうかい」タゴは、初めて笑った。歯の欠けた、不器用な笑いだった。「なら、こう、言い直す。…もう、独りで、抱えて、ねえよ。それだけだ」
ミラが、堪えきれずに、その痩せた手を、両手で握った。タゴは、うろたえて、それから、握り返した。第五節の夜と、同じ手だった。震えては、もう、いなかった。
市の門で、奇妙なことがあった。
門番が、一行の荷を検めなかったのだ。荷車には、いつのまにか、水の樽と、干し肉と、塩漬けの詰まった袋が、積まれていた。誰が積んだのか、誰も知らない。門番は、通行の帳面を開きもせず、ただ、顎で外を示した。
「…記録に、ない者は、通った、ことにも、ならん。行きな」
帳簿に、ない。それが、この市で、あの人が与えうる、最も高価な餞だと、一行は、もう、識っていた。
門の外。
乾いた海の白い縁を行く道の途上で。キサーラは、一度だけ、足を止めた。
右手にそびえる、世界の堰。天を突く、灰色の壁。その、向こうから…潮騒が、聞こえた。
遠い、遠い、水の声。誰の耳にも届かぬほど、幽かな。生きた大洋が、壁の彼方で、満ち、引き、うねっている、その、途方もない呼吸が。彼女の耳にだけ、届いていた。
――海。
見たことも、ないのに。懐かしい、と、思った。
その懐かしさが、自分のものか、それとも、遥かな、凍てついた深みで、同じ音を恋うている、もうひとりの自分のものか…彼女には、分けられなかった。分けられぬままに、暫し、聴いた。それから、歩き出した。
振り返ると、柱の館の、いちばん高い窓に、小さな人影があった。
初めてこの市に入った日と、同じ、窓。同じ、眼差し…では、なかった。値踏みでは、ない。それは、ただ、見送る、目だった。人影は、手を振らなかった。振れぬのだ。商人の顔でいる限りは。やがて、影は、窓から退いた。それで、よかった。
「…ひと月、か」と、ドレクが、歩きながら呟いた。
「長くて、な」ガルドが、応じた。
ロウは、何も言わず、ただ、東の空を見ていた。夜明けの、白い空を。まだ、何も、来ない。まだ、何の匂いも、しない。…まだ。
「行きましょう」と、キサーラは言った。
背後に、灰の下の火を。頭上に、水の刃を。行く手に、青き髪の刻限を。
一行は、白い大地へ、歩を進めた。西の門の市は、陽炎の中に遠ざかり…やがて、何ごともなかったかのような、豊かな賑わいの影に、戻った。
何ごとも、なかった。どの、帳簿の上でも。
ただ、灰の下の熾だけが、識っていた。




