第七章 西の門 八節
八節
触れは、市を駆け抜けていった。
戸が、閉まる。窓が、閉まる。灯が、消える。…上の市は、従順に目を瞑った。見ぬように、と、言われたから。見ぬことが、この市の生きる作法だから。
だが、底は、違った。
悲鳴は、なかった。号令も、なかった。ただ、手から、手へ。目配せから、目配せへ。子どもらが、腕から腕へ、渡されてゆく。水を分けた、あの細い脈が、いま、人を流していた。タゴが、掠れた声で囁く。「古い、塩の坑へ。三人ずつ。急ぐな。…走れば、狩られる」
一行は、裏の道を駆け降りていた。先導は、ドレク。渡り手の足が、報せの通わぬ抜け道を識っている。ロウの鼻が、闇の先を読む。セレナは、駆けながら、顔を歪めていた。
「…降りて、きます。縛られた精靈たちが。哭きながら」
やがて、底に、光が差した。
夜であるのに、昼のような、白い光。坂の上から、銀色の人影が降りてくる。急ぎもせず。まるで、月見のそぞろ歩きのように。笑いさざめく声が、光と一緒に、降りてくる。美しい、声だった。美しくて…どこまでも、空ろな。
最初の戸が、蹴り破られた。
逃げ遅れた印の男が、引き据えられる。光の縄が、宙に生まれて、男の首へ…
届かなかった。
縄が、ほどけたのだ。誰の手も、触れぬまま。光は、糸屑のように散り、散った光の奥から、小さな精靈の気配が、哭きながら、闇へ逃げていった。男は、転がるように、暗がりへ消えた。
銀の者らの、笑いが、止んだ。
「…ほどけた?」
一人が、おのれの手を見る。別の一人が、闇を透かし見る。そして、群れの先頭の、ひときわ丈高い影が、ゆっくりと首を傾げた。
「…この、手応え」
その声には、初めて、興が宿った。
「憶えが、あるぞ。いつぞやの、北の森。…捜せ。この底の、どこかに」
闇の中で、キサーラは、息を止めていた。傍らで、ミラの手が、彼女の袖を握りしめている。逃げる者らと銀の光の間に立つには、出てゆくしか、ない。出てゆけば…北の森の続きが、始まる。この、逃げ場のない底で。人々を、背にして。
彼女が、一歩を踏み出しかけた…その時。
…同じ頃。柱の館。
メルカルトは、まだ、卓に座っていた。
卓の上には、キサーラの手が置かれていた、その場所が、ある。温もりなど、もう、残っているはずもない。ないはずのものを、彼は、じっと見ていた。
永い、永い、歳月。彼は、量ってきた。真実の目方を。嘘の値段を。安寧の相場を。量って、量って、量りつづけて…量れぬものが、一つだけ、あった。それが、いま、卓の上の何もない場所に、置かれている。
「…割に、合わぬ」
と、彼は呟いた。誰にともなく。
そして、立ち上がった。
館の奥の間。報せの機の、間。彼の声を、市の隅々へ、門の外へ、そして…月へ、運ぶ、仕組みの座。彼は、その座に着いた。生涯で、幾万の触れを、ここから織ってきた。真実を、生地に。人を、眠らせる、仕立てで。
今宵の仕立ては、逆しまだった。
嘘を、生地に。人を、護る、仕立てで。
彼は、言葉を選んだ。一語、一語。生涯で、最も、丁寧に。針の一刺しも、緩まぬように。…月の者は、疑い深い。されど、彼らにも、量れぬものがある。彼らが、互いに抱く、位階の怖れ。それを、生地に、使う。
触れが、鳴った。
市じゅうに。底の隅々に。銀の光の真上に。
「…月神殿、審問官府の名において、告げる」
メルカルトの声は、常の蜜のような、それではなかった。冷たく、硬く、月の法の声だった。
「西の門の底に、潜む、異端は…審問官府の獲物と、定められた。青き髪の最上位審問官が、みずから、検分に、参られる。それまで、何人も、獲物に、指一本、触れるべからず。触れる者は、審問の妨げ、すなわち、月の法を、侵す者と、見なす。…英傑がたには、館にて、新しき宴の支度が、なってござる。どうぞ、坂を、お上がりくだされ」
底の白い光が、揺れた。
銀の者らが、顔を見合わせる。興は、ある。されど、審問官府と事を構える興では、ない。狩りは、遊び。遊びのために、月の法に触れるは…割に、合わぬ。
「…興ざめよ」
丈高い影が、肩をすくめた。光の得物が、仕舞われてゆく。銀の群れは、来た時と同じ、そぞろ歩きで、坂を上がってゆく。…ただ、先頭の影だけが、坂の途中で、一度、足を止め、振り返った。
闇を、透かすように。底の、どこかに、いるはずの、何かを、探すように。
「…北の森の。まだ、生きていたか」
それは、囁きだった。誰に、聞かせるでもない。されど、闇の中で、ロウの耳と、キサーラの耳だけが、それを拾っていた。
光が、去った。
底に、夜が戻った。ほんとうの、夜が。暗くて、静かで…生きている、夜が。坑の口から、一人、また一人、人が這い出してくる。誰も、声を上げない。ただ、互いの無事な顔を確かめ合って、暗がりの中で、何度も、何度も、頷き合っていた。
夜明け前。
底に、珍しい客が、降りてきた。
柱の館の主。西の門の商人。その人が、供も連れず、裾を汚しながら、灰の坂を降りてきたのだ。痩せた者らが、凍りついた。タゴが、身を硬くする。…烙印を押した、当の人が、烙印の者らの只中に、立っている。
メルカルトは、誰にも目を合わせず、まっすぐに、キサーラの前へ来た。
その顔は、一夜で、老いて見えた。あるいは…永く被っていたものを、外した、素顔なのかも、しれなかった。
「…買われたな、商人が、まんまと」と、彼は言った。「言うておくが、あれは、施しでは、ない。商いだ。生涯で、いちばん、割の合わぬ、な」
「いいえ」と、キサーラは首を振った。「いちばん、高い品を、買われたのです」
「何を」
「ご自分を」
メルカルトは、暫し、黙った。それから、ふ、と…嗤いでも、哂いでもない、初めて見る、崩れた笑みを洩らした。
「…高くつくとも。よいか、聞け」笑みが、消えた。「わたしは今宵、生まれて初めて、月に、嘘を、売った。月の触れは、いずれ、月の耳に、届く。審問官府は、おのれの名で、出された触れなど、識らぬ。…照らし合わせれば、偽りは、露れる。そして、まことの、審問官が、来る」
彼の目が、キサーラを射た。
「青き髪の。あれは、わたしの触れの中の作り物では、ない。まことに、いる。月神殿の、いちばん、硬い剣だ。…偽りの報せは、あの耳にも、届こう。西の門に、異端あり、と。お前さまが、死んでおらぬ、ことも」
ミラが、息を呑んだ。ロウの喉が、低く鳴った。
「買った時は、稼いだ」メルカルトは、言った。「長くて、ひと月。それが、わたしの嘘の賞味の期限。その間に、為すべきを、為されよ。…それと、タゴ」
名を呼ばれた痩せた男が、跳び上がった。
「帳簿は、失せたままだ。これからも、な。…お前らの名は、わたしの市の、どこにも、ない。ないものは、狩れぬ。…それだけだ」
彼は、踵を返した。灰の坂を、一人、登ってゆく。その背中に、タゴが、何かを言いかけて、言えず、ただ、深々と頭を下げた。頭を下げられた者は、振り返らなかった。…振り返れば、商人の顔に戻れなくなると、識っている者の背中だった。
キサーラは、その背を見送りながら、東の空を見た。
夜明けの、最初の光。その、遥か向こうから、いずれ、来る。青き髪のルビーの瞳が。死んだはずの獲物を、確かめに。
その日、西の門の市で、いちばん高い品が、ひそかに商われた。
売り手も、買い手も、値も…どの帳簿にも、残らぬ、品が。




