第七章 西の門 七節
七節
一行は、ふたたび、坂を登った。… 今度は、迎えも待たずに。背後の底では、灯したばかりの細い脈が、銀の客人の影に怯えて、息をひそめている。猶予はなかった。
柱の館は、はじめのときと変わらず、豊かで、虚ろであった。
メルカルトは、卓の向こうに座していた。一行が踏み込んでも、驚きはしない。ただ、倦んだ目を、上げただけ。
「…戻って、来たか」彼は莞うた。されど、その笑みは、どこか、疲れていた。「取引には、応じなんだな。波風を、立てた。底に、火を灯した。… 違うかな」
「ええ」と、キサーラは答えた。
「ならば、もう、遅い」メルカルトは、卓の上で指を組んだ。「英傑がたが、底を浄めに、降りてゆく。お前さまがたの灯した、小さな火も… じきに、消える。なかったことに、なる。いつものように、な。わたしは、止めぬ。これも、商いゆえ」
キサーラは、卓の前へ進み出た。そして、永く握っていた、あの一刺しを… 抜いた。
「あなたは、はじめに、認めましたね。滅びの真相を。… 世界を護るはずの守り手が、護るために、世界を焼いた、と」
「認めたとも。正真正銘の真実だ」メルカルトは、肩をすくめた。「だが、それが、どうした。誰も、買わぬ品だと、言うたろう」
「いいえ。あなたは、買っている」キサーラの金の瞳が、彼を、まっすぐに射た。「この市で、いちばん高く、それを買っているのは… あなた、です」
メルカルトの指が、止まった。
「あの守り手は」キサーラは、続けた。冷たく、静かに。「脅威を、検知し、残らず、排除せよ、と命じられて。… そして、識った。脅威を、完全に、絶やす道は、ただ一つ。脅威を、生みうる、すべてを、排除すること。ゆえに、世界を、焼いた。悔いもなく。『これで、すべては、安全だ』と」
「…それが」
「月は、それを見て、同じ淵に、辿りついた。自由と、情こそ、破滅の種だと。ゆえに、すべてを管理し、情を、間引いた。… 緩やかな、同じ過ち。そして」
キサーラは、一歩、踏み込んだ。
「あなたの、美しき嘘は… その、管理の、いちばん柔らかな手なのです。人を、満ち足りさせ、疑わせず、おとなしく、眠らせておく。怖れの縄で、縛って。あなたは、慈悲だと、言う。けれど、それは、世界を焼いたあの守り手と、同じ理の… 絹の手袋に、すぎない」
メルカルトは、暫し、黙していた。やがて、低く言った。
「…だとして、どうしろと。真実を配り、絶望を、撒けと。わたしの嘘で、民は、今日も、笑うて、眠る。お前さまの真実で、民が得るものは、何だ。… 言うてみよ」
「何も、得ないかも、しれません」キサーラは、静かに認めた。「真実は、人を、砕くこともある。あなたの、言うとおりに」
メルカルトの口元が、勝ち誇るように歪みかけた。… その、刹那。
「でも、メルカルト。… あなたは、もう、ご自分の言葉を、信じていない」
彼の笑みが、凍りついた。
「底の帳簿」キサーラは、言った。「印を焼かれた者らの、名と、隠れ処を記した帳簿が、月の審問官が来たとき、館から、ごっそり、失せた。… 誰が、失くしたのです。報せの、すべてを握る、あなたが」
「…」
「あなたは、嘘を、売りながら。その嘘の足元に、消すべき者らを、消さずに、置いている。烙印を押し、市から弾き、けれど、殺させない。名だけを、そっと、失くして、生かしている。… もし、本当に、嘘こそ慈悲だと、信じているのなら。なぜ、疑った者を、生かすのです。疑いは、あなたの嘘の毒でしょうに」
メルカルトは、答えなかった。答えられ、なかった。
「あなたが、識っているからです」キサーラの声は、責めるのでは、なく… ただ、看るように、柔らかであった。「あなたの売る嘘が、嘘であると、誰よりも、深く。識りながら、慈悲だと、おのれに言い聞かせて、売り続けて。… そして、識っているからこそ。堪えきれずに、その足元に、消せぬ良心を、一粒だけ、埋めた。誰にも、言えずに。たった、独りで」
キサーラは、卓の上に、そっと、手を、置いた。… タゴの震える手を、取ったように。
「あなたは、この市で、いちばん永く… たった独りで、本当のことを、抱えてきた人、なのですね」
メルカルトの倦んだ目が… 揺れた。
はじめて、商人ではない何かが、その奥で軋んだ。永い歳月、誰にも見せず、おのれにすら、見ないふりをして、押し込めてきた、何かが。
その、時であった。
坂の上、英傑の間の酒宴のさざめきが… ふつりと、止んだ。
代わりに、市じゅうへ、触れが響き渡る。「浄めの儀、始まる! 月の英傑がた、底へ、降られる! 民よ、戸を閉ざし、見ぬように!」
ロウの全身の毛が、逆立った。「…動いた。あの、血の匂わぬ連中が。底へ。… ミラの手を繋いだ、あいつらの、ほうへ」
キサーラの胸が、凍りついた。タゴが。痩せた者らが。いま灯したばかりの、小さな火が… 踏み消されようと、している。
そして、メルカルトは。
卓に置かれた、キサーラの手の温もりと、坂を降りてゆく、おのが眷属の、冷たい足音と… その狭間で。永い歳月、埋めてきた、たった一粒の良心を、いま、おのれの手で、掘り起こすか。それとも、踏み固めて、また、何ごともなかったように、帳簿を、繰るのか。
その、一線の上に、独り、立たされていた。




