第七章 西の門 六節
六節
火は、夜ごと、移っていった。
声高に、ではない。手から、手へ。… タゴが、隣の痩せた男の肩に、手を置く。その男が、また別の印を焼かれた女に、水を分ける。誰も、月を、声高に謗りはしない。ただ、目を、合わせる。「お前も、独りでは、ない」と、それだけを。… 闇の底に、細い、温かな脈が、一筋、また一筋と、通いはじめた。
キサーラは、それを、看ていた。… 大いなる真実を、説いて回ったのではない。ただ、隣に在ること。それだけが、手から手へ、移ってゆく。メルカルトの針も、糸も、この温もりには、届かない。
されど、坂の上の、あの品定めの目は… やがて、地の底から立ちのぼる、細い煙を、嗅ぎつけた。
市の触れが、変わった。
報せ売りの声が、いっそう、けたたましく、恐れを煽った。「異端の毒が、市の底に、巣食うておる! 門を弱らせる者ども、なお、潜むと! … 案ずるな、案ずるな。月の英傑がたが、じきに、底を、浄められん!」
ロウの首筋の毛が、逆立った。「…来る気だ。あの、血の匂わぬ連中が。底を、浄める、だと」
ドレクの顔が、強張った。「『浄める』… 退屈しのぎの、狩りの、別名さ。印を焼かれた連中を、まとめて、な。後にゃ、また『魔獣の害』と、確かな報せが、立つんだろうよ」
… 坂の上、英傑の間では。銀の客人らが、退屈そうに、その身を飾りはじめていた。守る要もなき、煌びやかな鎧を。新しい遊技に、新しい獲物を嗅ぎつけて。
刻限が、迫っていた。細い脈は、踏み潰される前に… 火は、燻りから、何かへと、ならねばならぬ。
その夜、タゴが、ふと、奇妙なことを口にした。
「…なあ。妙な話を、してもいいか」彼は、闇の奥を透かし見るように、言った。「俺たちはな、こうして、消されずに、生きてる。… おかしいとは、思わねえか。月様が、本気で、底を浄めようと思や、とっくに、できたはずだ。なのに、できちゃ、いねえ」
「…どういう、ことだ」と、ドレク。
「昔な、一度、月の審問官が、底を浚いに、来たことがある」タゴの声が、低くなった。「だが、その時、なぜか、俺たちの居場所を記した帳簿が、館で、ごっそり、失せていた。誰が、何処に、どの名で隠れてるか… 誰にも、辿れなかった。狩りは、空振りに、終わったのさ。… あの帳簿を握ってるのは、たった一人だぜ。報せの、すべてを握る、あの男さ」
キサーラの金の瞳が、見開かれた。… 観えた。嘘の織り手の、その織物の、ただ一箇所に。わざと、解かれたままの、綻びが。
メルカルトは… 美しき嘘を、売りながら。その嘘の底に、消すべき者らを、消さずに、置いている。烙印を押し、市から弾き、されど、殺しはせぬ。帳簿から、その名だけを、そっと失くしてゆく。… 嘘を売る男が、おのれの売り物の足元に、ひそかに、温もりの種を、埋めているのだ。
なぜ、と問うまでも、なかった。… あの、倦んだ吐息。ミラの言葉に、一瞬たじろいだ、あの瞳。彼は、おのれの売る嘘が、嘘であると、誰よりも深く、識っている。識りながら、慈悲と信じて、売り続けている。… そして、識っているがゆえに。その嘘の足元に、消せぬ良心を、一粒だけ、埋めずには、いられなかった。
メルカルトは、敵では、なかった。… いや、敵で、あった。されど、その敵は、おのれの裡に、とうに、裏切り者を、飼っている。
キサーラは、立ち上がった。
「決めました」静かに、彼女は、皆を見渡した。「握っている、あの一刺し。… 市の衆にでは、ありません。あの男に。メルカルト、その人に、突きつけます」
「正気か」ドレクが、息を呑んだ。「あいつは、剣も、ほどく力も、効かねえ。真実すら、認めた上で、売り流す男だぞ」
「ええ。だから、です」キサーラは、坂の上を見上げた。館に、ただ一つ灯る窓を。「あの市で、ただ一人… 本当は、真実を、欲しがっている買い手が、いるとすれば。それは、あの嘘を、いちばん永く、たった独りで、抱えてきた、あの人だから」
…| 怯えた男の隣に、立ったように。今度は、嘘に倦んだ男の独りの灯の、その隣に。




