第七章 西の門 五節
五節
タゴは、歩み寄るキサーラから、後ずさった。
「…よせ。何の真似だ」しわがれた声に、怯えが滲んだ。「俺を、焚きつけて、どうする気だ。また、表へ引っ張り出して、真実を、叫ばせて… そんで、今度こそ消されるのを、見物しようってか。御免だね。俺はもう、たくさんだ」
「一度、やったんだ」タゴの声が、震えた。「本当のことを、抱えてな。誰かが、隣に立ってくれると、信じて。… 誰も、立たなかった。一人だった。ずっと、独りで、抱えて、焼かれた。… 真実なんざ、そういうもんさ。抱えた者を、独りにする」
キサーラは、何も言わなかった。
言葉で、信じさせようとは、しなかった。… そうすれば、月と、同じになる。
ただ、彼女は、タゴの傍らに腰を下ろした。痩せた肩の、すぐ隣に。
ミラも、続いた。そして、そっと… タゴの震える手を、取った。
タゴが、息を呑んだ。
その手の温もりに、覚えがあった。… いや、タゴにでは、ない。キサーラに、であった。塩の原で、墜ちて、独りであった彼女の手を、いちばん最初に取ったのも、この娘の、この手の温もりであった。観るだけの者であった彼女に、情を、最初に分けてくれたのも。… その、同じ温もりが、いま、掌から掌へ、闇の底の痩せた男へと、移ってゆく。
ドレクが、タゴの前に、片膝をついた。
「タゴ。… 俺も、お前と、同じだった」渡り手は、静かに言った。「小せえ嘘で、その日その日を、誤魔化して生きた。お前が掴んだような、本物を掴んじまってたら、きっと、お前と、同じ末路だった。… 違ったのは、たった一つさ。俺の隣には、立ってくれた奴が、いた。それだけだ。… それだけの、違いなんだ」
ドレクは、タゴの印を焼かれた腕に、手を添えた。
「遅くなって、すまねえ。… だが、今は、いる。お前の隣に」
タゴの落ち窪んだ眼から、何かが、こぼれた。
永い間、嗤うことしかできなかった顔が… ようやく、哭いた。声を殺し、肩を震わせ、子供のように。真実を抱えて焼かれた痛みでは、なく。ただ、独りであった、その永さを… ようやく、誰かの前で、零すことが、できた。
キサーラは、その姿を看ていた。観るのでは、なく。… 看る。
わかった、と思った。… タゴを焼いたのは、真実では、なかった。独りで、それを抱えたコト。誰にも、看てもらえなかったコト。ならば、要るのは、もっと大きな真実でも、もっと巧みな言葉でも、ない。ただ、隣に在って、その姿を、看ること。
ふと、キサーラの胸を、遠い何かが過ぎった。… 遥か、皨の静謐。立ち上がる力を、持ちながら。誰にも、看てもらえぬまま、独りで、躊躇い続けている、もう一人の誰か。… その面影は、じきに、闇に紛れた。
暗がりの、そこかしこで… 息をひそめていた痩せた者らが、ほんの少しずつ、にじり寄ってきた。
まだ、声は、上げない。旗も、掲げない。ただ、その目の奥の「別の色」が… 怯えの裏に灯っていた、あの僅かな色が、ひとつ、またひとつと、ほのかに、強まってゆく。
誰かが、隣に立つのを、見て。… 己も、独りでは、ないのかもしれぬ、と。
「…これだ」ドレクが、低く呟いた。「あの男の市は、剣じゃ崩せねえ。声を張っても、縫い直される。… だが、これは、縫えねえ。手から手へ、移る、こいつだけは。あの男の針も、糸も、届きやしねえ」
火は、灯った。
されど、それは、表の市を一息に照らす炎では、なかった。光の届かぬ、地の底の片隅で… ひとつの、小さな、燻る熾火。誰にも、気づかれぬように。坂の上の、あの品定めの目にすら、まだ。
けれど、熾火は、消えてはいなかった。… 確かに、息づいて。隣の手へ、また、隣の手へと、移ってゆく、その時を。静かに、待っていた。




