第七章 西の門 四節
四節
柱の館を辞して、坂を下りるうち、キサーラは、市の気配が変わっているのに気づいた。
行きには、こちらを「気の毒なもの」を見る目で眺めた人々が… 今は、見ない。いや、見て、慌てて、目を逸らす。母親が、子の手を引き、足早に、路地の奥へ消えてゆく。さきほど果実を商っていた男は、こちらを認めるなり、戸板を、ぴしゃりと、閉てた。
市の角で、報せ売りが、真新しい触れを、声高に読み上げていた。
「触れである、触れである! 乾いた海より、素性も知れぬ流れ者ども、来たれり! 月の御稜威を謗り、門は崩れる、水が来る、と、市中に、不吉を撒く異端の者ども! 近づくな、関わるな…」
ドレクが、低く舌打ちした。
「…やられた。早すぎる」
キサーラには、わかった。… あれは、自分たちが、はじめの市で口にした、あの言葉だった。滅びの真相。月の偽り。人々の暮らしの外へ弾かれ、落ちたと思っていた、あの言葉。… 弾かれてなど、いなかった。メルカルトが、ひと針ずつ、拾い集めて、縫い直したのだ。「真実を告げる者」を、「不吉を撒き、門を弱らせる、異端の者」へと。
「真実を、撒いた者は」セレナが、青ざめて呟いた。「その真実ごと、針で、別の形に、縫われてしまう…」
恐れは、早かった。
水が来る。門が崩れる。… その一言が、満ち足りた顔の群れを、たちまち、別のものへと変えた。怯えた目。すがるような目。そして、その怯えの矛先を一行へ向ける、責める目。「あいつらのせいで」「あいつらが、来てから」… 囁きは、瞬く間に、市じゅうへ広がってゆく。
誰ひとり、剣を抜きはしなかった。それより、ずっと、効くものを、彼らは持っていた。… 背を、向けること。戸を、閉ざすこと。はじめから、なかったことに、すること。
ロウの喉が、低く鳴った。今にも牙を剥きそうな、唸り。
キサーラは、その肩に手を置いた。
「だめ」静かに、彼女は言った。「ここで、力を見せれば、あの触れが、本当になる。… わたしたちは、月と、同じには、ならない」
怒りでも、恐れでもなく。ただ、彼女は、引いた。仲間を促し、人々に背を向け、市の光の当たらぬほうへと。… 坂の上の館から、あの品定めの目が、すべてを勘定しながら見下ろしているのを、感じながら。
光を離れ、路地の奥へ、奥へ。… 第二の市で潜った、あの裏側。されど今度は、追われる身として。
そして、その暗がりで… 一行は、気づいた。自分たちだけでは、ないことに。
幌の影。崩れた壁の隙間。捨てられた荷の陰。… そこかしこに、人が、いた。痩せこけた者。腕に、消えぬ印を焼かれた者。表の光から、弾き出された者ら。彼らは、息を殺し、こちらを、視ていた。怯えと… けれど、その奥に、ほんの僅か、別の色を灯して。
「…表じゃ、生きられねえ連中さ」聞き覚えのある、しわがれた声が、闇から滲み出た。「月様を、ほんの少し、疑っちまった、ってだけで、な」
鼠のタゴが、荷の陰から、ゆっくりと姿を現した。
「言ったろう、銅縁の。真実なんざ、抱えた者を、焼くだけだ、と」タゴは、嗤おうとして、しくじった。「…だが、お前ら、逃げ込んできやがった。こんな、掃き溜めに。… 表の満ち足りた連中じゃなく、よ」
彼は、声をいっそうひそめた。
「いいか。ここで、息を殺してりゃ、まだ、ましなんだ。… 運が悪けりゃ、坂の上から、銀の客人が、降りてくる。退屈しのぎに、な。印を焼かれた者から、ひとり、またひとり、消えていく。後にゃ『魔獣に喰われた』と、確かな報せが、立つだけさ」
キサーラの額の琥珀が、また淡く疼いた。… 銀の客人。あの、血の匂わぬ、煌びやかな者ら。坂の中ほどの、英傑の間の賓客。… 名状しがたい寒さが、また、胸をよぎった。けれど、その正体は、なお、霧の向こうであった。
キサーラは、その暗がりに潜む、痩せた顔の、ひとつひとつを、観た。… 弾き出された者ら。されど、いなくなっては、いない。消されては、いない。表の光の、すぐ裏に、息をひそめて、確かに、いる。
大いなる嘘に、市の衆を相手取って、声を張り上げるのではない。… まず、ここ。この、光の当たらぬ片隅で。たった一人の、怯えた男の隣に、立つこと。火は、そこからしか、移らぬのだ。
キサーラは、タゴの前へ歩み寄った。




