第七章 西の門 三節
三節
迎えの男は、塵ひとつ落とさぬ足どりで、市の喧騒を抜け、柱の館へと続く、緩やかな坂を登ってゆく。一行は、それに従った。
登りながら、ドレクが、声を落とした。
「いいか、皆。真実を、ばら撒くんじゃねえ。さっきの市で、思い知ったろ。叫べば叫ぶほど、仕立て直されて、呑まれちまう」
「では、どうする」と、ロウ。
「一度だけ、抜く」ドレクの目が、坂の上の館を見据えた。「あの男の前で、ただ一度。仕立て直せねえ、一刺しをな」
キサーラは、ナブーの声を思い返していた。… 勝つ道は、ただ一つ。確かめられた真実を、美しき嘘に、突きつけるコト。乾いた海の底で、この身で識った、滅びの真相。世界を護るはずの守り手が、護るために世界を焼いた。月は、それを識りながら、救い手を騙っている。… これだけは、縫い替えようがない。事の一片ではなく、嘘の骨そのものを断つ刃なれば。市の衆へは投げぬ。織り手その人に、取っておく。
セレナが、静かに付け加えた。
「ひとつ、約してほしいのです」精靈読みの娘は、皆を見渡した。「わたしたちは、誰かに、無理に信じさせては、なりません。固く閉ざした瞼は、こじ開けられない。… こじ開けようとすれば、わたしたちが、月と、同じになる」
キサーラは、頷いた。… 信じさせるのではない。怖れの縄をほどき、おのれで選べるように、するだけ。それが、月と、わたしたちとを、分かつ一線。
ミラだけが、一度、坂の下を振り返った。タゴの消えた、あの暗がりのほうを。何も言わず。ただ、その隠れ処を、胸の奥へ、そっと刻みつけるように。
坂の中ほどで、一行は、ひときわ煌びやかな一郭の前を、通った。
黄金づくりの門。その奥に、広やかな間。…「英傑の間」と、迎えの男は、ただ一言、それを呼んだ。
間の中には、人がいた。いや…人と呼んでよいものか。背は高く、姿は壮麗。守る要などあろうはずもないのに、無用に煌びやかな鎧を纏い、はためく意味もなき旗を背負い、面を飾り立てた者ら。地上の民が、その足元に額ずき、酒を捧げ、うっとりと、その武勲とやらを讃えていた。
キサーラの額の琥珀が、ふと、淡く疼いた。
その者らの、身の裡にあるもの。… 遠い。見覚えが、ありすぎる。ありすぎて、かえって、寒い。
ロウの首筋の毛が、逆立った。
「…あれは」狼獣人は、喉の奥で低く唸った。「あれは、血の匂いが、しねえ。生きてるものの、匂いが、しねえぞ」
迎えの男は、莞うように一行を促した。「あちらは、我が主の大切な賓客がた。… さあ、お急ぎを。長居は、ご無用」
キサーラは、その煌びやかな間を、振り返り、振り返り… されど、答えは、出なかった。ただ、何かが、ひどく、ちがう。その寒さだけが、胸に残った。
坂を登りきると、柱の館が、口を開けていた。
内は、豊かであった。あらゆる珍宝、あらゆる書、あらゆる報せが、ここへ流れ込み、ここから、流れ出てゆく。されど… 市の民の顔が、そうであったように。その豊かさもまた、どこか、虚ろであった。満ち足りて、なお、何ひとつ、満たされていない。
その奥。帳場とも見える広い卓の向こうに、一人の男が、座していた。
壮麗でも、異形でもない。仕立ての良い衣を纏うた、ただの… と見える、商人。年の頃も、知れぬ。ただ、その両の眼だけが、入ってきた一行を、品定めの目で、ゆっくりと、勘定していた。第一節で、館の高みより注がれた、あの眼差し。
「ようこそ、乾いた海のお客人がた」男は、立ちもせず、莞うた。「わたしはメルカルト。この門の差配を預かり、虚実をあきなう者にござる。… さて。何を、売りに来られたかな。それとも、何を、買いに?」
キサーラは、答える前に、観た。… 男の言葉の、その裏を。
「あなたは、もう、識っているのですね」と、彼女は言った。「わたしたちが、何を、抱えているかを」
「むろん」メルカルトは、卓に積まれた無数の報せを、指で示した。「報せは、すべて、ここを通る。お前さまがたが、乾いた海の底で何を見たかも、東の火の山で何をしたかも… わたしの帳簿には、とうに、記してある」
彼は、ひとつ、息をついた。倦んだような、息を。
「滅びの真相、とやら、であろう。世界を護るはずの守り手が、護るために世界を焼いた。月は、それを識りながら、救い手を騙る。… ああ。それは、本物の真実だ。生地のままの、な」
あっさりと、認めた。あまりに、あっさりと。
「だが、お客人。問おう」メルカルトの声は、咎めるのでなく、ただ静かであった。「その真実を、あの市の民に配って、どうなる。飢えた子に、来年も畑は実るまい、と教えて、何になる。絶望か。… わたしは、逆を売る。実らずとも、なお植え続ける気力を、な。真実は、人を砕く。嘘は、人を、生かす。さて、どちらが、慈悲かな」
「真実なら」と、彼は続けた。「わたしの市で、最も、安い。なにゆえと言うて…買い手が、おらぬからだ。誰ひとり、欲しがらぬ。これは、わたしの仕業ではない。そういう、品物なのさ」
そして、メルカルトは、商人の顔に戻った。
「ゆえに… 取引を、持ちかけよう」彼は、両の手を、卓の上で組んだ。「お前さまがたは、西へ行きたいのだろう。門の向こうの、生ける海へ。ならば、開けてやる。路銀も、糧も、つけよう。月の追っ手から、姿を隠してもやる。なに、お前さまがたの報せを、わたしが帳簿から、消してやればよいだけのこと」
… 告死天使の名が、皆の胸を、よぎった。月の刃にのみ裂かれる、あの身を、その刃から隠せる。それは、途方もなく、甘い申し出であった。
「対価は、ただ、ひとつ」メルカルトは、莞うた。「黙って、行け。わたしの市に、波風を立てず、誰の瞼も、こじ開けず。… 民は、満ち足りておる。お前さまがたさえ、それを、壊さねば」
束の間、誰も、口を、開かなかった。… 甘い申し出であった。あまりに。
その沈黙を破ったのは、ミラであった。
「…さっき」ミラの声は、小さく、けれど、震えてはいなかった。「市の裏で、一人の人に、会いました。タゴ、という人に。たった一人で、本当のことを抱えて… 誰も、隣に立たなくて。焼かれて、鼠みたいに、隠れて、生きてる人に」
ミラは、メルカルトを、まっすぐに見据えた。
「あの人を、置いて、行けません。満ち足りてなんか、いない。… みんな、満ち足りた顔で、あの人を、見なかった。それだけです」
メルカルトの品定めの目が… ほんの一瞬、揺れた。怒りでは、なかった。むしろ、遠い昔に、おのれの手で斬り捨てた何かを、ふいに、目の前に差し出された者の、たじろぎのような。
されど、それは、瞬きひとつの間に、消えた。
「…そうか」メルカルトは、静かに、卓へ背を預けた。「では、見せてもらおうか。お嬢さん」哂うのでも、嗤うのでもない。ただ、底の知れぬ声で、彼は言った。「たった一人の、怯えた男の真実が、わたしの市ひとつぶんの、美しき嘘に… 売り勝てるか、どうか。… 言うておくが。これまで、ただの一度として、勝てた例は、ない」
その言葉の奥、黄金づくりの「英傑の間」のほうから、酒宴のさざめきが、遠く、聞こえていた。… 満ち足りて、虚ろな、笑いさざめきが。




