第七章 西の門 一節
一節
乾いた海を、西へ、西へと辿るうち、地の果てに、それはそびえ立った。
門、と呼ぶには、あまりに巨きい。天を支える二本の柱の如く、左右の断崖が空を裂き、その狭間を、人の手のものとも思えぬ普請が塞いでいる。乾いた海の側からは、ただ白々と、塩を吹いた壁。されど壁の向こうから、絶え間なく、地の底を渡るような唸りが響いてくる。
「…水の音だ」と、ロウが耳を伏せた。「途方もねえ。山が、丸ごと水になって、あの裏で、暴れてる」
生ける大洋。死せる海の縁に立つ者には、もはや語り種でしかない、本物の海。それが、門ひとつ隔てた、すぐそこに、満ちていた。
ガルドが、見上げた。鑑定士の眸が、識る目が、ゆっくりと曇ってゆく。
「…これは、堰だ。途方もねえ堰だ。旧き叡智が、海そのものを、押し止めるために据えた」低く、彼は呟いた。「もし、これが砕けたら」
言いさして、口を噤んだ。言われずとも、皆の背を、同じ冷たさが伝った。… 砕けたなら、死せる海は、ふたたび溺れる。世界の頭の上に、海ひとつぶんの刃が、音もなく吊るされている。
その門の足元に、市があった。
驚くべき、賑わいであった。塩より他には何ひとつ育たぬ荒野を渡ってきた目には、それは眩しいほどの豊かさと映った。色とりどりの布、香しい果実、見たこともない珍奇な品々が、所狭しと積まれている。門の向こう、生ける海から来るという珍味を、人々は競うように買い求めていた。門前に開けたこの市を、人は古き名で、リム・タルシシュと呼んだ。
そして、声。市の角々に、報せ売りが立っていた。
「さあさ、今日も門は揺るがぬ、揺るがぬ! 月の御稜威あるかぎり、水は一滴とて漏れはせぬ!」
「東の山が火を噴いたとや。なれど案ずるな、月の御手が、早々に鎮められたと、確かな報せ!」
人々は、その声に頷き、安んじ、また買い物へ戻ってゆく。誰もが、満ち足りた顔をしていた。… 満ち足りすぎて、どこか虚ろな顔を。
キサーラは、その顔の群れを、観た。ひとつひとつの顔に、何の翳りもない。怯えも、問いも、ない。ただ、与えられた安らぎを、疑いもせず、喉に流し込んでいる。… 山火の山で、ガルドの故郷の者らが浮かべた、あの必死の顔とは、まるで違った。
ドレクが、ふと、果実を商う男の前に足を止めた。渡り手の常で、彼は市井の口の利き方を心得ている。世間話の体で、そっと、真実の一片を置いてみた。
「なあ、旦那。妙な噂を聞いたぜ。… 昔、世界を焼いたのは、天の災いなんかじゃねえ。世界を護るはずの、旧き叡智のからくりが、護りすぎて、何もかも焼いちまったんだとよ。月は、それを知ってて、黙ってる」
男は、手を止めもしなかった。
「へえ。そいつは、おっかねえ話だ」と、男は莞った。商人の人の好い笑み。「だがよ旦那、そんな昔の話が、今日の俺の商いに、何の関わりがある? 水は門の裏で、大人しくしてる。月様が、見ていてくださる。それで、充分じゃねえか」
「…だが、その月が、嘘を」
「兄さん」横から、果実を選っていた女が、声を潜めた。咎めるのではなく、むしろ案じる色で。「滅多なことを、言うもんじゃないよ。月様を疑う言葉は、門を弱らせるって、言うじゃないか。あんたのせいで水が来たら、どうすんのさ」
周りの幾人かが、ちらと、こちらを見た。刺のある目ではない。気の毒なものを見る、そういう目で。
セレナが、進み出ようとした。精靈読みの力で、人の心に、真を視せられはせぬか、と。されど口を開く前に、みずから悟って、足を止めた。… 真を視せることは、できる。されど、視たくないと固く瞼を閉ざした者に、いったい、何を視せられよう。
キサーラは、立ち尽くした。
懐には、確かめられた真実があった。乾いた海の底で、この目で見、この身で識った、滅びの真相。冷たい声で告げられた、世界が世界を焼いた顛末。それは、月の偽りを断ち切る、何よりの刃のはずだった。
なれど。
ここでは、剣は、鞘から抜けぬ。斬るべき縛めもない。ほどくべき精靈もいない。手の中の刃も、ほどく力も、この市では、何ひとつ、断てず、ほどけぬ。真実を握っていながら、その真実を、誰ひとり、受け取ろうとしない。
「…これ」ミラが、呆然と呟いた。「こんなの、見たことない。皆、笑ってる。なのに、誰も、こっちを、見てない」
観察者であった頃のキサーラなら、これを「ひとつの、よく治まった箱庭」と記して、通り過ぎたであろう。されど今の彼女には、わかってしまう。この満ち足りた顔の群れが、何を手放した代償に、その安らぎを買っているのかが。… 真実を。そして、真実を恐れぬ、勇気を。
市の最も奥。門の柱に抱かれるようにして、ひときわ大きな館が建っていた。あらゆる報せが、あらゆる品が、まずそこへ集い、そこから市へと流れ出てゆくらしかった。
その館の高みから、誰かが、こちらを見下ろしている気配があった。
怒りでも、敵意でもない。むしろ… 面白いものを見つけた、とでも言うような。商人が、新しい客を値踏みする、あの、静かな眼差し。
ロウの喉が、低く鳴った。
「…気をつけろ。あすこのは、狂ってもいねえし、壊れてもいねえ。ただ、こっちを、ずっと、勘定してやがる」




