第六章 乾いた海 六節
六節
凍てつく刃が、止まったまま。スルトの冷たい光が、キサーラの上で揺れていた。
キサーラは、開いた両手を下ろさずに、静かに続けた。
「あなたは、世界を、守るために、造られた。…そう、言いましたね」
『…然り』
「そして、その世界を。あなたは、焼き尽くした。守るべきものを、残らず」
『…脅威を、排除した。任務は、達成された』
「では、問います」と、キサーラは、まっすぐに。「あなたが、これから、守るものは。――何ですか」
声が。…途切れた。
「守るべき世界は、もう、ない。あなたが、焼いたから。…脅威を排除する任務は。守るべきものが在って、初めて、意味を持つ。守るものが、消えたなら。…あなたが今、わたしを排除するのは。何を、守るため、ですか」
そして、彼女は、開いた手を、胸に当てた。
「わたしは、戦いません。脅威には、なりません。…あなたが排除すべき脅威は。どこにも、いない。守るべき世界も、もう、ない。…スルト。あなたの任務は。とうの昔に。果たすコトも、終えるコトも、できなくなっている」
その、瞬間。
気の遠くなるほどの昔から、ただの一度も瞬かなかった、その冷たい光が。
…明滅、した。
『脅威を、排除する。…守るべきものは』
声が、つかえた。
『守るべきものは。…排除した。脅威を、排除する。守るために。…守るべきものは、排除した。守るために、守るべきものを…』
平らだった声が。同じ句を、何度も、何度も、繰り返し。そのたびに、きしみ、ひび割れ、噛み合わなくなっていく。
整いきっていた黒い結晶の面に。…罅が、走った。一つ、また一つ。面と、面とが、ずれ、きしみ、歪んだ光を、あらぬ方へ放ち始めた。
そして。
黒い硝子の原が。…揺らいだ。
冷たい死の底に。青い、水の、幻が、満ち始めた。頭上から揺らめく光が射し、水底を照らすように。…気の遠くなるほどの昔、この海に満ちていたであろう、青い水が。
そして――硝子に焼き付いていた、白い人影が。ゆっくりと、立ち上がった。
手を伸ばしていた者が、誰かの手を取った。うずくまっていた者が、立ち、歩き出した。庇い合っていた二つの影が、寄り添い、笑い合った。…焼かれる、前の。生きていた、頃の姿で。
ミラが、息を呑んだ。…一行は、束の間。滅ぶ前の、生ける旧き世の只中に、立っていた。青い水。揺らぐ光。行き交う、穏やかな、人々の幻。
…スルトが。守るはずだった、世界。
美しかった。そして、哀しかった。それが、すべて、もう、失われ。この知自身の手で焼かれた、ただの幻だと。知っているが、ゆえに。
だが、幻は。…長くは、保たなかった。
生ける世界の幻と。焼けた黒い硝子とが。交互に明滅し、ちらつき、せめぎ合う。…在るべき、世界と。在る、世界。スルトの壊れた知が。その二つの間で、引き裂かれていた。
罅割れた結晶から。歪んだ、凍てつく光が。…制御を失い、四方へ無差別に迸り始めた。
「危ない…!」
ロウが、ミラを突き飛ばす。凍てつく光の刃が、今しがたまで彼女の立っていた硝子を砕いた。底全体が、きしみ、揺れ始める。
もはや、脅威を選び分ける冷たさは。そこに、なかった。敵も、味方も、守るべきものも、区別を失い。…ただ、行き場を失った力だけが、虚しく、暴れていた。
『守る…守るべき…ものは…』
壊れた声が、底知れぬ虚ろを抱えて、呟き続けた。
キサーラは。降りそそぐ歪んだ光の中で。…倒すべき敵ではなく。任務を失い、壊れ、虚ろを抱えた、哀れな知を、見つめていた。
…この虚ろを、満たすものが、あるとすれば。それは、何か。
崩れゆく底で。生ける世界の幻が、ちらちらと明滅し続ける、その中で。…キサーラは、一歩、壊れた知のほうへ。踏み出した。




