第六章 乾いた海 三節
三節
尾根を辿って、西へ。
ナブーの言葉の通りだった。塩の高みは、底の灼熱より、いくらか息がしやすく。岩の窪みには、わずかな水の名残もあった。
けれど――追っ手は。刻一刻と、迫っていた。
ロウの警告は。日ごとに、短く、切迫していった。「近い」「もっと、近い」。そして、三日目の昼。
「…来た」と、ロウが低く唸った。「もう、後ろだ」
振り返ると。
尾根の彼方の、白い陽炎の向こうに。…青い、影が。硬い殻の騎獣に跨った、告死天使の姿が。まっすぐ、こちらへ駆けてくるのが、見えた。
もう、以前のようなためらいは。…微塵も、なかった。
「走って!」と、キサーラが叫んだ。
一行は、尾根の上を駆けた。されど、人の足と、月の騎獣とでは。距離は、みるみる詰まっていく。
背後から、青白い光の刃が、幾つも射かけられた。キサーラが、振り向きざま、その縛めを解き、払う。されど、走りながらでは、守りきれぬ。一つが、ドレクの脚を掠めた。
そして――尾根が、尽きた。
行く手は。断崖。…足下に、白い塩の斜面が、目も眩む深さで落ち込んでいた。乾いた海の、いちばん深き底へと。…ナブーが「決して、降りるな」と戒めた、その窪みへと。
後ろを見れば。告死天使が、尾根を塞ぎ、ゆっくりと迫ってくる。神器を、青白く燃え上がらせて。
…進むも、地獄。退くも、地獄。
「…ナブー様は」と、ガルドが断崖の底を見下ろし、呻いた。「底へは、降りるな、と。言ってた」
「だが、このままじゃ」と、ドレクが、脚を引きずりながら。「あいつに、殺される…!」
キサーラは、一瞬、迷った。…知の魔王の戒め。底に眠る、途方もなく古いもの。されど、目の前には、確実な、死。
彼女は、決めた。
「下りましょう」と、言った。「…知らぬ危うさのほうが。確かな死より、まだ、望みがある」
一行は、断崖の塩の斜面へ。…身を、躍らせた。
ずるずると、白い塩の斜面を滑り落ちる。眩い底へ。禁じられた、深みへ。
告死天使は。…断崖の縁で。ぴたりと、足を止めた。
騎獣が。底の闇を前に、怯えたように後ずさる。アズライールのルビーの瞳が。滑り落ちていく一行を追い――そして、その先の深き底を見下ろして。…微かに、歪んだ。
「…愚か、な」と、彼は呟いた。その声に滲んだのは、勝ち誇りでは、なかった。…何か、底知れぬものへの。畏れ、だった。「あんな処へ…自ら、降りるとは」
月の審問官ですら。追う足を止める、場所。…乾いた海の、いちばん深き底とは。いったい、何なのか。
滑り落ちながら。キサーラは、頭上を仰いだ。断崖の縁に立ち尽くす告死天使の影が。みるみる、遠く、小さくなっていく。
…追っ手から、逃れた。されど。
眼下に広がる底無しの闇から。冷ややかで、途方もなく古い、何かの気配が。…ゆっくりと、立ち昇ってくるのを。彼女は、肌で感じていた。
乾いた海の、禁じられた底へ。…一行は、墜ちて、ゆく。




