第六章 乾いた海 二節
二節
乾いた海を、西へ。三日、歩いた。
昼は灼ける塩が足の裏を焼き。夜は、骨まで凍える寒さが襲った。水は、乏しく。ガルドが、塩の地のわずかな窪みに夜露を集める術で。辛うじて、喉を潤した。
そして、四日目の夕暮れ。
白い地平の彼方に。…黒い影が、見えた。
塩の白さの中に、ただ一点。墨を落としたような、黒い館。…智の魔王、ナブーの座す処。
一行が、館の門をくぐると。
無数の声が。一斉に、囁いた。空気そのものが震えるような、あの、声が。
『…戻って、きたか』
声には。咎めも、驚きも、なかった。ただ、すべてを見通していたような、静かな響き。
『北の森で、眠れる女神を、揺り起こし。東の山火で、狂える鍛冶を、鎮めた。…そして、月の刃に、その身を、裂かれたな。黄金の観察者よ』
キサーラは、驚かなかった。知の魔王ならば、遠く離れていても、世の出来事を読み取るコトを、知っていた。
「ええ」と、彼女は静かに答えた。「傷を、負いました。…そして。わたしが、何から、出来ているかを。皆に、知られました」
『それで』と、ナブーの声が問うた。『其方の、傍らに。まだ、はらからが、在るのは。…何故か』
キサーラは、傍らのミラを、ガルドを、仲間たちを見た。
「…わたしが、何で、あるかでは、なく。誰で、あるかを。看てくれたから、だと、思います」
無数の声が。…ふっと、和らいだ。笑った、ようにも聞こえた。
『塩の果てに、初めて、来た時の其方とは。見違えた。…あの時は、まだ、世を、映す、鏡であった。今は。世に、爪痕を、残す者と、なった。傷を、負い、傷を、与えられ、なお、誰かに、看られ――それは、もはや、観察者では、ない』
「ナブー」と、キサーラは本題を切り出した。「わたしたちは、西の門へ向かいます。世界を堰き止める、あの門へ。…けれど、この乾いた海は、あまりに広く、あまりに惨い。渡る道を、教えていただけませんか」
『道は、ある』と、ナブーは答えた。『気の遠くなるほどの、昔。この海が、まだ、水を、湛えていた頃。水底には、峰々が、連なっていた。今は、塩の地から、背を、出した、尾根となっている。…その、高き尾根を、辿って、西へ、行け。低き底より、いくらか、涼しく、水の名残も、ある』
そして、声が、ひとつ、低くなった。
『…ただし。海の、いちばん、深き底。尾根の落ち込む、その窪みには。決して、降りるな』
「…底には」と、セレナが、思わず口を挟んだ。「何が、いるのですか。…途方もなく古い気配を、感じました」
無数の声が。…ふいに、静まった。
しばらく、館には。塩の風の音だけが、満ちた。
『…あれは』と、やがてナブーは言いかけて。…ふたたび、言葉を濁した。何か、途方もなく重いものを、言いかけて、呑み込んだような間。ガルドが、眉を寄せた。…塩の果てで一度聞いた、あの沈黙と、同じ、だった。
『今は、知らずとも、よい』と、ナブーは静かに言った。『知るべき、時が、来れば。其方は、厭でも、底へ、降りるコトに、なろう。…だが、それは、今では、ない』
ナブーの声が。気を取り直すように、続いた。
『其方らが、向かう、西の門。…そこには、番人が、在る。門を、過ぎる、物と、報らせの、一切を、握る者。名を、メルカルト』
『心せよ。…彼は、これまでの、魔王とは、違う。壊れても、狂うても、おらぬ。醒めきった、抜け目なき、商人。…そして、月の触れ役だ』
「触れ役…?」と、ミラが首を傾げた。
『月の美しき、物語を。地上に、売り歩く者よ』と、ナブーは言った。『なぜ、世が、滅びたか。なぜ、月が、地上を、管理せねばならぬか。…その問いへの、耳触りのよい、答えを。真実の顔をして、配り歩く。人々は、それを、信じ、疑うコトを、忘れた』
『メルカルトとは、剣では、戦えぬ』と、ナブーの声が厳かに響いた。『其方の「ほどく」力も、彼の前では、役に、立たぬ。…彼が、縛るのは、精靈ではなく。人の心だからだ。美しき、嘘という、縄で。其方が、彼に、勝つ道は、ただ一つ。…確かめられた、真実を。その、美しき嘘に、突きつけるコトだ』
キサーラは、深く頷いた。…剣の通じぬ、敵。言の葉で真偽を争う戦。
その時。ロウが、館の外へ耳を向けた。
「…あいつだ。遠いが…乾いた海に、入ってきた」
告死天使が。尾根の彼方に。ふたたび、その気配を現し始めていた。
『行け』と、ナブーは言った。『尾根を、辿り、西へ。…底へは、降りるな。そして、美しき嘘に、呑まれるな』
一行は、知の魔王に礼を告げ。黒い館を背に――ふたたび、白い海へと、西を目指して歩み出した。
乾いた海の、いちばん深き底を。右手に、避けながら。




