第五章 山火の山脈 十節
十節
長くは、留まれなかった。
ロウの耳が捉える、岩を退ける音は。刻一刻と、近づいていた。告死天使は、崩れた岩盤を執念深く穿ち。じき、追いついてくる。
傷の癒えたキサーラが、身を起こした。ガルドの手と、仲間の温もりが。彼女をふたたび立たせていた。傷跡は、残れど――もう、歩ける。
「行きましょう」と、キサーラは言った。「ここに留まれば、皆に害が及ぶ」
山火の民が。洞の出口まで、見送りに来ていた。
咳は、もう、止んでいた。煙の晴れた空の下、杜瓦夫たちの顔には。気の遠くなるほど忘れていた血の気が、戻り始めていた。
ヴァイノが、ガルドの前に立った。
「…ガルド」と、濁った片目で言った。「山は、救われた。親方も、戻った。…お前の帰る場所は。ここに、ある。残らねえ、のか」
ガルドは、しばらく黙って、生まれ故郷の山を見上げた。煙の晴れた稜線を。
「…残りてえ気持ちは、ある」と、低く言った。「だがな、ヴァイノ。…俺は、知っちまった。この広い世に。山火と同じように、壊れて、苦しんでる奴らが。まだ、いるってコトを。月の思うままにされた地が。あちこちに、あるってコトを」
彼は、隣のキサーラを、ちらと見た。
「それに。…この、危なっかしい連中を。放っちゃ、おけねえ」
ヴァイノは、ふっと笑った。…気の遠くなるほどぶりに見る、旧友の笑みだった。
「そうか」と、頷いた。「行け。…だが、覚えとけ。お前が、いつ、帰ってきても。山火の灯は。消さずに、待ってる」
二人の老杜瓦夫は。ふたたび、ごつい拳を突き合わせた。
そして、山の奥から。地鳴りのような声が、届いた。
イルマリネンが。火を落とした巨躯で。坑道の闇の奥から、彼らを看送っていた。
「…黄金の娘よ」と、親方は言った。「わしの縛めを、解いてくれた、娘よ。…餞に、一つ、教えておこう。わしが、なぜ、狂うたか」
「気の遠くなるほどの、昔。世を、焼いたのは。外から、来た、何かでは、ない。…わしらだ。造る者たちが。造ることに、酔うた。より、多く。より、疾く。より、強く。…『何のために』を、忘れて。気づいた、時には。世は、燃えていた」
親方の赤い双の洞が、翳った。
「月は、それを、見て――慎みなき、造り手を、恐れた。だから、地上から、造る力を、知る力を、ことごとく、取り上げ、封じた。…善意から、かもしれぬ。だが、娘よ。火を、恐れて、灯まで、消すのは。それは、もう、守ることでは、ない」
「お前さんは」と、親方は続けた。「灯を、消さずに。されど、火に、呑まれもせずに。…その境を、歩いている。気の遠くなるほどの昔、わしらに、出来なかったコトを。…行け。お前さんの、旅は、まだ、半ばだ」
キサーラは、深く頭を垂れた。
「ありがとう、イルマリネン。…あなたの灯が。これからも、子らを、照らしますように」
親方の双の洞が、ガルドへ向いた。
「職人よ」と、言った。「わしに、鎚の、意味を、思い出させた。小さな、大きな、職人よ。…礼を、言う」
ガルドは、照れ臭そうに鼻を鳴らした。
「…灯を、ともしな。親方」
一行は、山を下りた。
煙の晴れた山火の山脈を、背に。澄んだ風の吹く稜線を辿って。
ガルドが、行く手の地平を見やった。
「…南と、西」と、呟いた。「まだ、二つ。月に屈した地が、残ってる。…南には、すべてを統べる、強大な魔王。西には、報せを操る、灰色の魔王がいるって噂だ」
ミラが、キサーラを見た。「次は、どっちへ?」
キサーラは、しばらく考え。そして、遠い地平の片方へ、静かに目を向けた。
その時。
背後の山の奥で。…どう、と、岩の崩れる音が、した。
告死天使が。ついに、岩盤を穿ち、抜けたのだ。
一行は、顔を見合わせた。…追っ手は、なお、背後に。されど、その足取りは、もう、以前ほど恐ろしくは、なかった。傷を、分かち合い。秘密を、分かち合い。…彼らは、塩の果てを出た時よりも、ずっと固く、結ばれていた。
「行きましょう」と、キサーラは言った。額の琥珀が。朝の光を受けて、淡く灯る。
黄金の観察者と、その、はらからは。背後の影を振り切るように――いや、その影ごと、引き連れて。次なる、壊れた地へと。歩み出した。
…山火の山脈に、久しく忘れられていた朝焼けが。赤く、美しく、燃えていた。




