第五章 山火の山脈 九節
九節
古い抜け道は。山火の臓腑を縫うように、続いていた。
ヴァイノの先導で。一行は、暗い坑道をいくつも抜け。やがて――山の北の斜面に口を開いた、小さな洞へ出た。
追っ手の気配は。ひとまず、遠い。崩れた岩盤が。告死天使の足を、阻んでいた。
ロウが、キサーラを、そっと岩の床に下ろした。
黄金の衣は赤黒く染まり。肩から脇腹の傷は――塞がりきらず、なお、淡い光を明滅させていた。彼女の身に宿る治癒の力は。月の神器が刻んだ、その傷の深さに。追いつけずに、いた。
「…平気、です」と、キサーラは掠れた声で言った。けれど、その顔は青ざめ、額の琥珀の輝きも、弱々しい。
「平気なもんか」と、ガルドがぶっきらぼうに言って――彼女の傍らに、膝をついた。
彼は、その傷口を。あの、識る目で、じっと視つめた。
…やはり。彼の見立て、通りだった。裂かれた、その奥。淡く光る糸の幾筋かが、断たれ。月光の骨が、罅割れている。彼女自身の治癒の力では。この断たれた糸を、元通りには――繋ぎきれずに、いた。
「…直せる」と、ガルドは呟いた。
キサーラが、薄く目を開いた。
「…ガルド。あなたは、わたしが――」
「何から、出来てるか、か」と、ガルドは先を引き取った。「ああ。わかっちまった。塩の果てで授かった、この目で。…お前さんの身は。あの、失われし世の、まことの素材で、出来てる。星をも焼く、あの技で」
彼は、懐から道具を取り出した。細かな鏨。小さな鎚。職人の手道具。
「だがな、キサーラ」と、ガルドは、その傷口に、そっと手を添えた。星を焼く技を宿した、その、ごつい、無骨な手を。「俺は、決めたんだ。この技は――灯を、ともすためにだけ、使うって。山を崩すためでも、星を焼くためでも、ねえ」
彼の目が、和らいだ。
「…友を、繕うためなら。これ以上の使い道は、ねえ」
そして、ガルドは。気の遠くなるほど昔、旧き叡智の民が極めた、その技を。…ただ、一筋の糸を繋ぐために、振るった。
断たれた光る糸を。一本、また一本と。たしかな手つきで、継ぎ、結び直していく。罅割れた月光の骨を。慈しむように、埋め、均していく。…星を焼けるほどの技を。これほど繊細に。これほど、優しく。
ミラが灯りを掲げ、手元を照らした。セレナが薬草を練り、外の赤い傷に当てた。ドレクが湯を沸かし。ロウが、洞の入り口で、じっと耳を澄ます。
…傷ついた一人を囲む、その輪の中に。恐れは、なかった。
キサーラは、その光景を。薄れゆく意識の中で、看ていた。
…見られて、しまった。この身が、人の肉ではないコトを。旧き叡智の造り物であるコトを。気の遠くなるほど怖れていた、その時が。…とうとう、来て、しまった。
なのに。
誰も、離れていかなかった。ミラは、灯りを掲げ。ガルドは、骨を繕い。皆が、傷ついた自分を、囲んでいる。…人で、あるか、ないか。そんなコトは、もう、誰の目にも。
「…前に」と、セレナが、ぽつりと言った。薬草を当てる、その手を、止めずに。「あなたは、言ってくれたわね。精靈が、からくりの名残だと知って、迷う、私に。…『生まれが、何であれ。心が、あるなら。それは、尊い』と」
セレナは、顔を上げて微笑んだ。涙ぐみ、ながら。
「あなたが、何から、出来ていても。…同じコト、よ。キサーラ」
キサーラの金の瞳から。つ、と。雫が、こぼれた。
それは、彼女が流した血と、同じ。…人と寸分違わぬ。温かい、涙だった。
遠い星の彼方の――あの半身を、ふと、想った。おのれを送り出しておきながら。怖じ気づいて、来られずにいる、臆病な半身を。
…あなたも、いつか。こんなふうに、誰かに。そのままの姿を、看てもらえたなら。立ち上がれるの、かしら。
その想いは、声にはならず。ただ、温かな涙と共に、彼女の裡に沈んでいった。
傷が、癒えてゆく。ガルドの手と、仲間の温もりの中で。…されど、安寧は、長くは続くまい。
洞の入り口で耳を澄ませていたロウが。低く、呟いた。
「…あいつは。まだ、山の中だ。岩を退けてる音が、する」
告死天使は。崩れた岩盤の向こうで、なお――執念深く、追う道を穿とうとしていた。
束の間の灯し火のような、安らぎ。その外縁を、冷ややかな影が。ひたひたと、取り巻いていた。




