第五章 山火の山脈 八節
八節
月の、真の、権能が。振り下ろされた。
巨大な光の刃が。山火の空洞を裂いて、キサーラめがけて落ちてくる。
キサーラは、それを解こうと、掌をかざした。…けれど。あまりに、巨大で。あまりに、深く、束ねられた、その縛めは。一息には、解けなかった。読み、ほどき始めた、その刹那に。
刃は――もう、届いていた。
ずん、と。
鈍い衝撃が。肩から脇腹にかけて、走った。
キサーラの身が、よろめいた。
…痛み。
それは、彼女がこの地に降りてから。初めて知る、感覚だった。墜ちても、渇いても、並みの刃に斬られても、損なわれなかった、その身が。…今、裂かれていた。
そして。
赤い、血が。…噴いた。
人のそれと寸分違わぬ、赤い血が。黄金の衣を濡らし、灰の地に、したたり落ちる。
その場の誰もが。…凍りついた。
傷つかぬ、はずの者が。傷ついた。血を、流した。
けれど。
皆を、真に凍らせたのは。…その、血の赤さ、では、なかった。
裂けた、傷口の。…赤の、その奥に。
淡く光る、糸のようなものが、幾筋も。月光をそのまま固めたような、白く、なめらかな骨組みが。…覗いていた。
人の肉でも、骨でも、なかった。血は、人のもの。されど、その奥に秘められていたのは――この世のものとは、思えぬ。哀しいほどに美しい、人ならぬ、神秘。
「キサーラ!」
ミラが、叫んだ。
誰よりも、先に。恐れも、ためらいも、なく。駆け寄り――崩れかける、その身を、抱き止めた。
塩の原で。初めて、その手を、取った時と。同じように。
掌に、温かい血が、伝わる。その奥の、淡い光も。…ミラには、どうでも、よかった。人で、あろうと、なかろうと。腕の中に在るのは。共に塩の果てを渡った、かけがえのない――キサーラ、その人だった。
ガルドの目が。その傷口の奥を。射るように視ていた。
…あの、光る、糸。月光の骨。あれは。塩の果てで、おのれが識った、あの――失われし世の、まことの、素材。額の琥珀と、同じ。キサーラは…キサーラの身は。
老いた職人は、息を呑んだ。誰よりも深く――彼女が、何から成っているかを、識ってしまって。
そして、アズライール。
彼のルビーの瞳が。傷口の奥の、人ならぬ光を捉えた、その刹那。…歪んだ。歓喜とも戦慄ともつかぬ色に。
「…やはり」と、彼は呻いた。「やはり、そうだ。人では、ない。旧き叡智の――造り物。滅びの種、そのものだ! 見たか、皆の衆! これが、お前たちの、守ってきた、異端の――正体だ!」
彼は、神器を、ふたたび振り上げた。深手を負い、膝を折った、その黄金の身に。止めを、刺さんと。
だが、その時。
ロウが。ドレクが。セレナが。傷ついた仲間を庇い、告死天使の前に、立ち塞がった。…届かぬ、と、知りながら。それでも。
「やらせ、ねえ…!」と、ドレクが吼えた。
そして――地鳴りが、した。
火を落としていた、イルマリネンの巨躯が。緩やかに、動いた。…恩を忘れぬ者の手が。その大きな腕が、空洞の岩盤を掴み――アズライールと一行の間に。どう、と、崩し落とした。
土煙と岩塊が。告死天使の視界を、断つ。
「今のうちに…!」と、ヴァイノが叫ぶ。「こっちだ! 古い、抜け道が、ある!」
ロウが、キサーラを背に負った。ミラが、その手を固く握りしめ。一行は、崩れる岩の向こうの告死天使を残して――山の暗い抜け道へと、駆け込んだ。
背に負われたキサーラの傷口は。…ゆっくりと、塞がり始めていた。淡い光が脈打ち、裂けた身を繕うように。されど、その治りは、遅く。痛々しい傷跡を、残して。…気の遠くなるほど、損なわれるコトを知らなかった身は。おのれを癒す術すら、まだ、不慣れ、だった。
朦朧とする意識の中で。キサーラは、おのれを負う背の温かさと。握られた手の温もりを、感じていた。
見られて、しまった。人ならぬ、この身の奥を。…なのに。誰も、手を、放さなかった。
その、コトが。噴き出した血よりも、熱く。彼女の胸を、濡らした。
…背後の崩れた岩の向こうで。土煙を裂いて、青白い光が、ふたたび灯るのが。見えた。
告死天使は。…まだ、諦めて、いない。




