第五章 山火の山脈 七節
七節
青白い神器が、薙がれた。
束ねられた精靈の光が、白銀の刃となって、キサーラめがけて奔る。…塩の果てで見た、あの、月の権能。地上の精靈を、命じ、従え、刃と化す、力。
キサーラは、退かなかった。
迫る刃に掌をかざし――その縛めの結び目を、解いた。刃が、ほどけ、光の粒に還る。
戦いの火蓋が、切られた。
「下がっていて」と、キサーラは仲間に言った。背後の杜瓦夫たちを、ちらと見やって。「彼の力は――あなたたちでは、届かない。みんなを、お願い」
ドレクが得物を握りしめ。ロウが、牙を剥いた。けれど――わかっていた。塩の果てで、思い知った。アズライールの操る月の権能の前では。彼らの刃も、牙も、届かぬコトを。セレナが精靈に呼びかけようとしても――その精靈は、すでに告死天使に縛られている。
救い手は、いなかった。ナブーは、遠い塩の果ての館に。山の主イルマリネンは――火を落とし、もはや、戦う者では、ない。
キサーラは、ただ一人で。月の最上位の審問官と、向き合った。
アズライールが、神器を振るう。
光の刃が、槍が、鞭が――間断なく、四方から襲いかかった。
はじめ、キサーラは、押された。
一の刃を、ほどき。二の槍を、身を捻って躱し。三の鞭が――肩を、掠めた。黄金の衣の上を、青白い光が滑る。
けれど。
その一合ごとに。…彼女は、識っていった。
神器が精靈を束ねる、その結び目の在り処を。光の刃が放たれる、その寸前の気配を。アズライールの呼吸の、癖を。…塩の果てで、まだ磨かれていなかった、ナブー由来の原石が。今、実戦の火に灼かれ、稜を得て、研ぎ澄まされていく。
二合目には。掠めた鞭を、来る前に、読んでいた。
三合目には。刃の結び目を、放たれた刹那に、解いていた。
四合目には。…踏み込んでいた。アズライールの懐へ。
アズライールのルビーの瞳が、見開かれた。
「…馬鹿な」と、呻いた。「塩の果ての、お前とは。…まるで、別人だ」
彼の知る異端では、なかった。斬り結ぶ、その刹那ごとに。この女は、変わっていく。疾く。鋭く。まるで、彼の剣そのものを喰らい、糧としているかのように。
その時。
キサーラの掌が。アズライールの神器を握る、その手首を、捉えた。
一瞬、時が、止まった。
…今、この縛めを、解けば。あるいは、その喉を衝けば。告死天使を、斃せる。誰の目にも、そう映る、隙だった。
けれど。
キサーラは――ただ、神器を握る手を、押し退けた。斬らず。殺さず。彼を、後ろへ、突き放しただけ。
アズライールの顔が。驚愕から――別の何かへ、歪んだ。
「…なぜだ」と、彼は呻いた。「なぜ、討たぬ。今、討てたはずだ。お前は、いつも――いつも、そうだ。なぜ、殺さぬ!」
それは、怒りの声、ではなかった。…恐れの、声だった。討つべき敵が、己を、討たぬ。その不可解が。彼の凍りついた確信の、どこかを。ぴし、と、軋ませた。
キサーラは、静かに応えた。
「わたしは、あなたを、倒しに、来たのでは、ありません」
「黙れ…!」
アズライールの叫びが、山を揺るがした。…殺されぬ、戸惑い。成長し続ける異端への、焦り。そして、捻じ伏せたはずの師の問いが、また頭げてくる――その、恐怖。すべてが、彼を追い詰めていた。
「もう、手加減は、せぬ」と、彼は歯を食いしばった。「並みの術では、お前には、届かぬ。ならば――月の、真の、権能を。見せてやろう」
白銀の神器が。…これまでとは次元の違う、烈しい光を放ち始めた。
山火の空洞の、あらゆる岩の隙間から。地の底の最後の精靈までが引きずり出され――一つの、巨大な、光の刃へと、束ねられていく。
キサーラの額の琥珀が。警めるように、強く灼けた。
…これは。これまでの刃とは。違う。
月の権能の、その真髄が。いま、まさに、彼女めがけて、振り下ろされようとしていた。




