第五章 山火の山脈 五節
五節
ガルドは、鎚を止めなかった。
炉の口の双の洞に見据えられながら。彼は、掌の中の「出来損ない」を――あの、一筋狂った星の車輪を、打ち続けた。
そして、見抜いた。識る目で。・・・歯車の、ただ一枚。その噛み合わせの、わずかな、ずれ。気の遠くなるほどの昔、親方が、ついに正せなかった、その一点を。
ガルドの鎚が、そこを打った。・・・カン、と。たしかな音を立てて。
ずれていた歯車が。かちり、と。あるべき場所に、収まった。
その刹那。
止まっていた親方の一本の腕が。・・・震えた。
「・・・それだ」と、地鳴りのような声が呟いた。今度は、明らかに。ガルドの手元を視て。「それを・・・わしは。気の遠くなるほど・・・探していた」
ガルドは、けれど。完成した、その星の車輪を――そっと、傍らに置いた。
「親方」と、彼は、初めて口を開いた。職人が、職人に語るように。「あんたは、造り方を、思い出しかけてる。・・・だが。それじゃ、足りねえ」
彼は、炉の火から、簡素な金属の椀のようなものを手早く拵えた。油を張り、芯を置き――火を、点す。
ささやかな灯りが、一つ。赤黒い溶岩の光とは、違う。柔らかな、暖かな火が、ぽつりと灯った。
「思い出してくれ、親方」と、ガルドは、その灯りを掲げた。「あんたが、何のために、鎚を振るってたのか。・・・星を、巡らせる、車輪。海を、測る、秤。立派だ。だが、肝心なのは、そこじゃ、ねえ。・・・あんたの、造ったもんで。誰かが、暗い夜を越せた。誰かが、凍えずに済んだ。・・・そのために、打ってたんだろう。あんたの、子らの、ために」
ガルドは、背後の――煙に咳き込むヴァイノを。灰に塗れた集落の方角を、指した。
「あんたの、子らだ。・・・あんたの、煙で。今、死にかけてる。あんたが、何のために造るのかを忘れた、その間に」
炉の口の双の洞が。揺れた。
無数の鎚が。一本、また一本と――その勢いを、失っていく。
「・・・子ら」と、イルマリネンは呟いた。「わしの・・・子ら。・・・わしは。何を・・・」
その時。
親方の巨躯を縛っていた、無数の精靈の光が。・・・ふいに、緩んだ。
親方の振るう力が衰えるとともに。気の遠くなるほど、休みなく駆り立てられていた、その縛めが。わずかに、たわんだ。
キサーラは、それを見逃さなかった。
額の琥珀が、強く灯る。彼女は、両の掌を開いた。・・・一柱ずつ、では、ない。緩んだ縛めの大本の、結び目を。山じゅうの、数えきれぬ糸が束ねられた、その根を。・・・一息に、解いた。
山が、震えた。
気の遠くなるほど、掘らされ、熔かされ、泣き続けてきた、数えきれぬ精靈たちが。一斉に、縛めを、解かれ――光の奔流となって、坑道という坑道を駆け上り、山の外へ、溢れ出ていった。啼くように。歌うように。気の遠くなるほどぶりの、自由を。
そして――止んだ。
気の遠くなるほど、ただの一度も止むコトのなかった、あの、鎚の音が。山火の轟きが。
・・・静かに、なった。
イルマリネンの巨躯が。緩やかに、膝を折るように、沈んだ。炉の口の双の洞が。初めて――何かを、看た。灰に塗れ、痩せ、咳き込む、おのれの子らを。己の食い潰した空ろな山を。打ち捨てた、出来損ないの墓場を。
「・・・わしは」と、地鳴りの声が、震えた。もはや、怒りも、狂いも、なく。ただ、底知れぬ悔いだけが。「わしは・・・何代もの、子らを。わが手で・・・炉に、くべていたのか」
ガルドは、歩み寄り。その大きな、灼けた手の中に。あの、小さな、柔らかな灯りを、そっと載せた。
「まだ、間に合う」と、低く言った。「あんたの手は。星を焼く手じゃ、ねえ。・・・灯を、ともす手だ。思い出したんなら。もう一度。今度は・・・子らの、ために」
イルマリネンは、しばらく。掌の中のちいさな灯りを。赤い双の洞で、じっと看つめていた。
そして――数えきれぬ腕の、その一本で。ごく、ゆっくりと。鎚を、置いた。
気の遠くなるほどの昔から、一度も手放さなかった、その鎚を。
山火の奥に。静寂が、満ちた。
溶岩の川が、ゆっくりと冷め、赤黒く凪いでいく。噴き上げていた煙が、細り――やがて、山の口から、久しく忘れられていた、澄んだ風が吹き込んできた。
ヴァイノが。よろよろと進み出て。膝を、折った。静かになった、大きな親方の前に。濁った片目から、涙が、止め処なく、こぼれ落ちていた。
「・・・お帰り、なさい」と、ヴァイノは呟いた。「親方」
ガルドは、その傍らで。ごつい手の甲で、目尻をぬぐった。・・・逃げた男が。手ぶらでなく、帰ってきた、その果てに。
キサーラは、少し離れて、それを看ていた。
ダヌは、言の葉で。親方は、鎚で。・・・守る者も、造る者も。壊れた心を解く鍵は、いつも。力では、なく。その者がいちばん大切にしていた、何かを、思い出させること、だった。
自由になった精靈の光が、頭上を、星のように流れていく。
その光を仰ぎながら――キサーラは、ふと、思った。遠い星の彼方の、あの半身もまた。何かを、思い出しさえ、すれば。立ち上がれるの、だろうか、と。
その問いの答えは。まだ、霞の彼方・・・。




