第五章 山火の山脈 二節
二節
山の麓に。集落が、あった。
石を積み上げた頑丈な家々。けれど、その軒も、壁も、降り積もる灰にくすんで、灰色に沈んでいる。通りには、人影が乏しい。たまに見かける杜瓦夫たちは。皆、背を丸め、布で口を覆い――歩きながら、乾いた咳をしている。
集落の奥。山の腹に穿たれた巨大な口から。絶え間なく、赤い光と鎚の音が漏れ出ていた。・・・カァン、カァン、と。誰が打つでもなく。山そのものが脈打つように。止むコトのない、音。
よそ者の一行に。気づいた数人の杜瓦夫が、警戒の目を向けた。
その一人が。先頭の小さな影に目を留め――息を、呑んだ。
「・・・ガルド、か?」
声の主は。ガルドと同じほどの背丈の、肩幅の広い、老いた杜瓦夫だった。片目が、煙に灼かれたか、白く濁っている。
ガルドが、足を止めた。
「・・・ヴァイノ」と、呟いた。
ヴァイノと呼ばれた老杜瓦夫の顔が。喜びとも、怒りともつかぬ色に歪んだ。
「よくも、帰ってきたな」と、低く言った。「山を、捨てた、男が。・・・俺たちが、灰を吸って。一人、また一人と逝く、あいだ。お前は、外の、きれいな空気を、吸ってた、わけだ」
ガルドは、何も言い返さなかった。ただ、灰に汚れた地面を見つめて、立っていた。
ミラが、思わず口を開きかけた。・・・ガルドを、庇おうと。けれど、その前に。路地の奥から、細い咳の音が聞こえた。見れば、幼い杜瓦夫の子が、母親の背に負われて、苦しげに喘いでいる。
ミラの言葉が、喉で凍りついた。
ヴァイノは、しばらくガルドを睨んでいたが。やがて、大きく、肩で息をついた。
「・・・まあ、いい」と、背を向けた。「積もる話は、中で。外は、灰が、肺に障る」
石造りの、広間。煤けた炉の火を囲み。ヴァイノは、語った。よそ者には決して語らぬはずの、山の来し方を。ガルドの連れてきた黄金の娘の、静かな眼に、何かを感じ取ったのか。
「山の主を。俺たちは、親方と呼ぶ」と、ヴァイノは言った。「鍛冶の祖。・・・イルマリネン様」
「気の遠くなるほどの、昔。親方は、この山の奥で、世に二つと無い宝を鍛えていた、と伝わる。星を、巡らせる、車輪。海を、測る、秤。・・・俺たち杜瓦夫は、その手伝いを許された、誇り高い民、だった」
火が、爆ぜた。
「だが――或る時。世が、焼けた」
「空が、落ちるような。途方もない、滅び。・・・その時、親方に何が起きたのか。誰も、知らねえ。ただ、滅びの、後。親方は・・・変わって、しまった。何を、鍛えればいいのか。何の、ために、鍛えるのか。・・・それを、忘れちまった、らしい」
「以来、親方は。ただ、掘る。ただ、熔かす。ただ、鎚を、振るう。何を造るでもなく。造っては、坑道に捨て、また、掘る。・・・山は、内から食い尽くされ、空洞になり。煙だけが、年々、濃くなる。俺たちは、その煙で、静かに死んでいく」
その語りを。
ガルドだけが、ほかの誰とも違う面持ちで聴いていた。
彼は――知っていた。塩の果てで、知の守り手から授かった、あの、技。物のいちばん小さな一粒までを見通し、意のままに組み替える、失われし世のまことの理。それを極めた果てに、何が、あるか。岩を砕き、山を崩し、星を焼く――あの、滅びの淵を。ガルドは、その淵の縁に立って。慄き、そして、背を向けた者だった。
なのに。
親方は。・・・その、淵の底へ。堕ちてしまった者なのだ。
何のために、造るのか。その問いを、失い。ただ、造る力だけが残った、なれの果て。慎みを得る前に、技だけを極めた果ての――地獄。ガルドが踏みとどまった、まさに、その、一歩、先。
ごつい拳が。膝の上で、固く握られた。
「逃げろ、と。お前は、言いてえんだろう」と、ヴァイノがガルドを見た。「だが、どこへ、行く。・・・俺たちは、親方の子だ。親方が鍛え、親方が育てた、民だ。その親方を、見捨てて。煙が苦しいからと、逃げ出して。それで、俺たちは、まだ、杜瓦夫、と、呼べるのか」
ヴァイノの濁った片目に。涙とも煤ともつかぬものが、滲んだ。
「親方は、狂れた。わかってる。・・・だが、あれは。俺たちの、親だ。狂れた親を。見殺しに、できるか。・・・お前に・・・できたのか、ガルド」
ガルドは、答えられなかった。
黄金の娘が、静かに口を開いた。
「見殺しに、しに、来たのでは、ありません」と、キサーラは言った。「わたしたちは――親方を。正気に、戻しに、来ました」
ヴァイノが、嗤おうとして・・・できなかった。その金の瞳の、揺るぎなさに。
「気の遠くなるほど、誰にも止められなかったものを」と、彼は掠れた声で言った。「お前さんに、何が、できる」
「わたし一人では、何も」と、キサーラは、傍らのガルドを見た。「けれど。・・・ここに、一人。親方の忘れたものを。識っている者が、おります」
ヴァイノの目が。ガルドへ、向いた。
ガルドは、ゆっくりと立ち上がった。
灰に汚れた、顔。けれど、その目には――塩の果てで、本物の技と、その恐ろしさを知った、あの、深く静かな光があった。
「・・・俺は」と、ガルドは言った。「逃げた。それは、もう、取り返さねえ。だが――手ぶらで、帰っちゃ、いねえ」
彼は、懐から、あの、小さな、光るかけらを取り出した。塩の果てで、おのれの掌に生んだ、失われし世の素材の、ひとひら。
「親方が、忘れた、いちばん、肝心な、こと。・・・何のために、鍛えるのか、ってことを。俺は、よその果てで、教わってきた。鍛冶ってのは、星を焼くためじゃ、ねえ。・・・灯を、ともすため、だ」
炉の火が、ガルドの横顔を赤く染めた。
「会わせろ、ヴァイノ。・・・親方に」
ヴァイノは、長い、長い、あいだ。古い友を見つめていた。
そして、ゆっくりと立ち上がり――山の腹の、赤く灼ける口のほうへ、顔を向けた。鎚の音が、なお止むコトなく、地の底から響いてくる。
「・・・後悔、するぞ」と、彼は呟いた。「あれは、もう。お前の知ってる、親方じゃ、ねえ」
それでも、彼は――一行を山の奥へといざなうために。先に、立った。
止まらぬ炉の轟きの、ただ中へ。一行は、一歩、踏み込んだ。




