第四章 白樹の森 十二節
十二節
冷たさだけが、彼の味方であった。
告死天使アズライールは、北を目指す荒れ野の半ばにいた。
塩の果ての、あの屈辱から。幾日が過ぎたか。・・・封じられし知の魔王を目覚めさせた、黄金の異端。あれを討つと月神殿に誓い、態勢を整え、ふたたび地上へ降りた。されど――あの女の足跡は、塩の風に紛れ、容易には掴めなかった。
道々、彼は、おのれの務めを果たした。土に埋もれた旧き叡智の欠片を見つけては封じ、それに祟られた邑を鎮めた。旧き叡智は、滅びの、種。芽吹く前に摘むが、慈悲。・・・それが、月の正義であり、彼のただ一つのよすがであった。
無辜の民を守るため。そう、おのれに言い聞かせながら。
その、夜。荒れ野にひとり、月を仰いだ、その背に。
冷たい光が、降りた。
月の、意。声とも呼べぬ声が、頭の奥に響く。・・・北。遠き北の森で。幾星霜、眠っていた大いなる気配が。目を、覚ました、と。古き、守り手。封じられ、忘れられていたはずの、もう一柱の――魔王が。
アズライールの息が、止まった。
また、か。
塩の果てでは、知の魔王が目を覚ました。そしていままた、北で。・・・二度。立て続けに。封じられし太古の力が、おのれのまどろみを破られている。偶然で、あるものか。
月の意は、続けて報せた。その北の目覚めの、傍らに。月の身を持ちながら、地上の塵を庇う、奇しき者の影があった、と。・・・精靈を、縛るのでは、なく。解く、者。
「・・・あの、女か」
声が、掠れた。間違いようが、なかった。精靈の縛めを解く――そのような面妖な技を使う者を。彼は、ただ一人しか知らぬ。塩の果てで、彼の神器の一撃を、力ではなく、「ほどいて」、無に帰した、あの、黄金の。
やはり、あの女が、いる。封じられし魔王どもを、つぎつぎと目覚めさせながら。・・・彼の確信が、冷たく燃え上がった。見たことか。あの女こそ、地上に滅びを撒き歩く者。師の道が誤りであった、何よりの証。
けれど――その、燃え上がる確信の裏で。
彼は、思い出してしまっていた。塩の果てで。あの女が、戦のさなかに。彼に向かって放った、あの、問いを。
悪意では、なかった。ただ、静かに、問うた。・・・知を、封じ、奪い、地上の者から、おのれが何者であったかを知らせぬこと。それは、まことに、守ることか。それとも、月が、地上から奪い続けるための、何かなのか、と。
あれは。
幾星霜の昔。白い月の下で。彼が、その手で葬った、師の――最期の問いと。寸分、違わなかった。
――汝の、剣は。地上を、守るためか。それとも、月が、地上から、奪い続けるための、ものか。
あの女は、知らぬはずだ。師の名も、その最期も。なのに、なぜ、寸分違わぬ言葉を。まるで、亡き師があの女の口を借りて、よみがえったかのように。
アズライールは、こめかみを押さえた。
否。惑うては、ならぬ。あれは、異端の世迷い言。偶然の符合に、過ぎぬ。・・・月は、正しい。月が、正しくなければ。師を断った、この手は。ただの、人殺しに墜ちる。私の、これまでの、すべてが、意味を、失う。
信じ続けねば、ならなかった。何が、あろうと。
ふと、月の意の端に。彼は、あるものを感じ取った。・・・北の目覚めを月に報せたのは。地上へ戯れに降り、いのちを狩りの駒として弄んでいた、白銀の狩人ら、だという。
彼の眉が、ひそめられた。
あの者ら。同じ月を戴きながら。彼が、命を削って守ろうとする、その地上のいのちを。退屈しのぎに屠って、嗤う。・・・なにゆえ、月は、あのような汚れを許しておくのか。問いかけて、彼は、また、その思いを奥歯で噛み潰した。月の御業を、疑うては、ならぬのだ。
彼は、立ち上がった。
腰の神器が、月の光を吸って、青白く冴える。傍らに控えた異形の騎獣が――硬い殻に覆われた、半ば生きて、半ば造られた、その獣が。主の意を察し、低い唸りを上げた。
アズライールは、その背に跨った。
「北へ」と、彼は、誰にともなく呟いた。「あの女と、目覚めた魔王のもとへ。・・・こたびこそ」
異形の獣が、音もなく駆け出した。
青き髪が、月の光に青く燃える。・・・塩の果てで果たせなかった、あの誓いを。いま、北の森へと運んで。
遠い、その森で。守られた者らが、灯りを囲み、笑いさざめいている、その温もりは。まだ――おのれに向かって研ぎ澄まされた、この刃の近づくのを。知らずに、いた。




