第四章 白樹の森 十一節
十一節
旅立ちの朝が、来た。
白樹の森は、朝靄に包まれていた。梢から滴る露が、朝日に、ひとつ、ひとつ、灯って。まるで、森じゅうが別れを惜しんで瞬いているようだった。
リナは、もう、ひとりで立っていた。
頬に血の色を宿し、ニーヴに寄り添われて。ほんの幾日か前、蝋のように白かった、その娘が。いまは、まぶしげに、朝の光を見上げている。
ミラが、リナを、ぎゅっと抱いた。
「約定、だよ」と、ミラは言った。「元気になったら。いっしょに、世界を見るって」
「うん」と、リナは頷いた。「待ってる。・・・気を、つけて、ね。みんな」
ドレクは。妹の前で、しばらく言葉を探していた。
かつては、この妹を守るためにこそ、月へ刃を向けると誓った男。その妹を、いま――置いて、ゆく。けれど、それは、見捨てるのでは、ない。守られた、と知ったうえで、託していくのだ。
「・・・達者で、な」と、ようやく、ぶっきらぼうに言った。
「兄ちゃんこそ」と、リナは莞った。「無茶、しないで。あたしのために、なんて、言って。・・・もう、死にそうな顔、見せないでよ」
ドレクの目尻が、また滲みかけ――慌てて、空を仰いだ。
一行が、里の外れまで来たとき。
それまで、荷の紐を黙々と締めていたガルドが。ふと、手を止めた。
「・・・なあ」と、その無骨な杜瓦夫は、誰にともなく言った。「次は、どこへ、向かう」
皆が、彼を見た。ガルドがこんな風に口を開くのは、珍しかった。
「行くあてが、ねえなら」と、ガルドは髭を撫で、ためらいがちに続けた。「・・・俺の山に。来ちゃ、くれねえか。東の。山火の、ふもとだ」
「リナの嬢ちゃんが、ああだったから。言い出せなかったんだが」と、ガルドは、ぼそりと言った。「・・・俺の故郷も。長えこと、患ってる。山が、な。燃えてるんだ。ずっと、気の遠くなるほど昔から。・・・消えやしねえ。山の腹の奥で。誰も頼んじゃいねえのに。炉が、ひとりでに、燃え続け、掘り続け、造り続けてる。何を造ってるのかも、わからねえ。ただ、煙と熱だけが、年々、ひどくなって。・・・俺の同胞は。その煙を吸って。一人、また一人と、咳き込んで、倒れていく」
その声には。長く胸の底にしまわれていたものの、重みがあった。
キサーラは、ガルドを看た。
ダヌは、守る力を持ちながら、退いた者だった。・・・ガルドの語る山の主は。きっと、その、逆。造る力を持ちながら。何のために造るのかを忘れ、止まれなくなった者。同じ壊れ方では、ない。けれど、どちらも――遠い昔に、何かを損なった者の、なれの果て。
「行きましょう」と、キサーラは、迷わず言った。「あなたの、山へ」
ガルドが、面を上げた。
「・・・いいのか」
「ダヌが、リナを護ってくれたように」と、彼女は莞った。「今度は、わたしたちが。あなたの、同胞を」
ドレクが、ロウが、セレナが、ミラが。誰も、否とは言わなかった。・・・塩の果てを共に渡った、はらから。一人の故郷の痛みは。もう、皆の痛みだった。
ガルドは、ふと、キサーラの横顔を見た。
遺物を検めるときの、あの目で。・・・この黄金の娘の、「ほどく」力。あれが、あれば、あるいは。山の狂った炉の結び目さえ、解けるかもしれぬ。そんな淡い望みが。老いた杜瓦夫の胸をよぎった。けれど、それは、まだ口にはしなかった。
森の際まで、ダヌが見送りに来ていた。
「黄金の子よ」と、女神は言った。「そなたの、ゆく道は。これから、いよいよ、嶮しく、なろう。・・・忘れるな。守ると、決めた者は。ひとりでは、ない。そなたの、傍らには、いつも、この者らが、おる。そして、この、森も。いつでも、扉を、開けて、待っている」
幾星霜、閉ざしていた扉をおのれの手で開いた女神の言葉だけに。それは、重く、そして、温かかった。
一行は、東へ歩み出した。
白い幹の並木が、朝靄の奥へと続いている。背に、別れを惜しむ精靈たちの光を浴びながら。前に、まだ見ぬ山火の山を思い描いて。
森を出る、間際。
キサーラは、ふと、足を止めた。
うなじのあたりに。ひやり・・・としたものが。・・・視線のような。遠い高みから見下ろす、何かの気配。振り返っても、そこには、ただ、朝靄に煙る森があるばかり。月は、もう、白い昼の空に溶けて、見えぬ。
気のせい、かもしれぬ。
けれど――森の、いちばん深いところで。送り出したばかりのダヌの貌が。ほんの一瞬、翳ったのを。キサーラは、知らなかった。
女神の視線の、その先。北の空の、ずっと奥に。・・・何か、冷たいものが。ひとつ、ゆっくりと、こちらへ向き直った。その気配が、あったコトを。




