第四章 白樹の森 十節
十節
幾日かが、過ぎた。
白樹の森は・・・見違えるように、なっていた。
女神が世へ戻ってからというもの。淀んでいた奥の闇は、晴れ。精靈たちは、臆するコトなく枝々を翔び交い、泉は、朝ごとに、あたらしい光を湛えた。里の愛爾芙たちの顔つきまでもが、どこか、ほどけて明るい。
リナは、日に日に、力を取り戻していった。
はじめは、匙を運ぶだけ。やがて、床に起き上がり。幾日かののちには、ニーヴに支えられ、庵の外の陽だまりまで出られるようになった。
ミラは、暇さえあれば、リナの傍らにいた。
森で摘んだ花の名を、教え。塩の原の隊商で聞きかじった、遠い土地の話を、語って聞かせる。・・・病の床で、世界を知らずに過ごしたリナにとって。ミラの語る、ありふれた外つ国の話は。どんな宝物よりも、まばゆかった。
「いつか」と、リナは、陽だまりで言った。「あたしも、行ってみたいな。ミラの見た、ところ、ぜんぶ」
「行こう、行こう」と、ミラは莞った。「元気になったら。いっしょに」
その様子を、少し離れて、ドレクが見ていた。
ゆうべまで、こぶしを握りしめ、月へ呪詛を吐いていた男の肩から。憑きものが落ちたように、力みが抜けている。妹が、笑う。ただ、それだけのコトが。男の世界のすべてを、塗り替えていた。
ダヌは。すっかり、童らの人気者になっていた。
幾星霜、扉の奥で孤独を噛んでいた女神が。いまは、愛爾芙の子らに囲まれ、精靈を掌の上で踊らせて見せている。その、たどたどしい、はしゃぎようは。長く人と交わるコトを忘れていた者の、不器用なよろこびだった。
夕暮れ。
キサーラは、ひとり、泉のほとりにいた。
いつのまにか、ダヌが、傍らに立っていた。水鏡に、二つの影が、並んで映る。
しばらく、二人は、黙って、暮れていく空を看ていた。
「のう」と、やがて、ダヌが口を開いた。「そなたは、月の手から、この地を、解き放つと。そう、心に、決めて、おるな」
キサーラは、頷いた。
「ならば、一つ。年ふりた者の世迷い言と、聴き流して、くれてもよい」
女神の声が。遠い昔をたぐる、ように、低くなった。
「月は、言うておろう。・・・旧き世の民は、驕り、おのれの手で、世を、焼いた。だから、月が、天へ昇り、地を、救うてやったのだ、と。・・・わらわは。その、焼ける世を。この、目で、看た者じゃ」
水面が、夕陽に紅く染まる。
「あれは・・・驕りなどでは、なかった。少なくとも、それ、だけでは。火は・・・内から、来た。守るべき、ものを。守る、はずの、力が。・・・それ以上は、わらわにも、わからぬ。ただ、これだけは、言える。月の語る、物語は。あまりに、きれいに、過ぎる。おのれを、救い手と、するための。後の、作り話の、匂いが、する」
キサーラの胸に。ナブーの託した言葉が、よみがえった。・・・滅びは、内側から、来た。月は、それを知りながら、偽りを伝えている。
遠い塩の果てと、この北の森。二つの声が、いま、ひとつに重なった。
「のう、黄金の子よ」と、ダヌは、ふと、キサーラを看た。その、底知れぬ眼で。「奥つ宮で、そなたは、言うたな。『守る力を持ちながら、動けぬ者の哀しみを、なぜか知っている』と。・・・あれは。そなた、自身の哀しみでは、ないな。・・・そなたは、それを。誰かから、受け継いだ。ずっと、遠い、誰かから」
キサーラは、答えられなかった。
その、誰か、が。誰なのか。自分でも、わからぬ。ただ、ダヌの言葉は。胸の、いちばん深いところを。そっと撫でていった。・・・いつか、識る日が来る。そんな予感だけが、淡く残った。
ダヌは、それ以上は問わなかった。ただ、莞った。
「リナのコトは。案ずるな」と、女神は言った。「あの娘は、この森で、わらわが、看よう。二度と、月の手にも、毒にも、触れさせぬ。・・・そなたらは、安んじて、先へ、ゆくがよい」
その、ひとことが。一行の肩から、最後の重しを下ろした。
ドレクは、もう、迷わずに済む。妹を置いてはゆけぬ、という棘が。ようやく、抜けたのだから。守るべきものを守られたうえで・・・守るための旅を、続けられる。
その夜も。庵には灯りがともり、笑い声が満ちた。
リナの頬は、もう蝋の色では、なかった。ミラと額を寄せ、何がおかしいのか、くすくすと莞い合っている。ドレクがガルドと椀を酌み交わし、ロウが、その隅で、静かに肉を噛んでいる。セレナはニーヴと低く語らい・・・その目に、もう、あの迷いの翳りは、なかった。
キサーラは、戸口で、その灯りの輪を看ていた。
観察するために、降りた、はずだった。なのに、いまは。この、温かな輪の内側に。自分も、確かに、居る。・・・それが、不思議で。そして、何より得難いコトのように、思えた。
旅は、まだ続く。北の森を出て、次の地へ。けれど、それは、明日のコト。
今宵だけは。守れたものたちの灯りの傍らで。彼女は、ただ、しずかに莞っていた。




