第四章 白樹の森 九節
九節
森が、目を覚ましていく。
女神が一歩進むごとに。閉ざされていた緑の闇に、光が差し、戻っていった。怯えて息を潜めていた精靈たちが。梢から、苔から、泉から。ひとつ、また、ひとつと、おそるおそる顔を出し・・・やがて、歓びの淡い光となって、女神の裾にまとわりついた。母が、還ってきた。森じゅうが、そう囁き交わすように、ざわめいている。
里に着く頃には。ダヌの血の涙は、もう乾いていた。
ニーヴの庵の、薄暗がり。藁の寝床に、リナは横たわっていた。ゆうべより、また痩せて。呼吸は浅く、頬は蝋のように白い。
ダヌは、その枕辺に、音もなく膝をついた。
「・・・まあ」と、女神は囁いた。リナの額に手をかざして。「ちいさな、いのち。こんなにも、つよく、燃えようと、している。・・・消えるものか。まだ、何も、見ておらぬのに」
ダヌの掌から。
澄んだ水の雫が、滲み出た。一滴、また一滴。それは、リナの胸へ染み入り・・・娘の内なる淀みを探し当てていく。失われし世の毒の、黒い澱を。
リナの痩せた身が、びくりと震えた。
女神の指先が。その黒い澱を、ゆっくりと・・・手繰り、寄せ、引き、上げていく。深い淵から汚れた水を汲み出す、ように。リナの唇から、苦しげな吐息が漏れ。そして・・・す、と。楽に、なった。
白かった頬に。ほんのり、紅みが差した。浅かった呼吸が、深く、ゆるやかになっていく。
リナの瞼が。ふるえて・・・開いた。
濁りの晴れた、澄んだ瞳。それが、ぼんやりと宙をさまよい。やがて、枕辺の人影を捉えた。
「・・・兄、ちゃん?」
ドレクの喉から。声にならぬものが、こぼれた。
膝でにじり寄り。痩せた妹の手を、両の手で握りしめ。・・・そして、男は、泣いた。掠め、奪い、月へ刃を向けると凄んでみせた、その男が。子どものように、声を上げて。妹の手に額を押しつけて。
「・・・ばか」と、リナは、まだ夢うつつの声で莞った。「なんで、泣いてるの。・・・あたし、おなか、すいた」
その、あまりにありふれた、ひとことに。
庵に詰めていた皆のこわばりが。どっと、ほどけた。
ミラが、いちばんに笑った。涙をぼろぼろこぼしながら。「すぐ、すぐ、何か作るね。あったかいものを」と、もう竈のほうへ駆け出している。・・・何も求めず。ただ、皆の無事を願う。その娘らしい、まっすぐさで。
ロウが、ふん、と鼻を鳴らし。柄にもなく目尻をぬぐった。ガルドが、無骨な手でドレクの肩を、ぽんと叩いた。
セレナは。少し離れて、それを看ていた。
血の涙を流した、女神。いま、ちいさな人の子の額を撫でて、莞っている、その姿を。・・・聖きものか、からくりの名残か。そんな問いは。もう、どこにも、なかった。ここにあるのは、ただ、慈しみ。それだけで、もう充分だと。セレナは、ようやく、そう思えた。長く胸を塞いでいた重しが。すっと、軽くなっていた。
ダヌが立ち上がり。キサーラの傍らに歩み寄った。
「礼を、言わねば、なるまい」と、女神は言った。けれど、その声には、まだ、どこか、こわごわとしたひびきがあった。「久しく、外の風に、あたって、おらぬ。・・・眩しいの。光も。声も。・・・こうして、また、誰かの、ために、手を、動かすコトが。こんなにも、おそろしく。こんなにも・・・温かいとは」
キサーラは、首を横に振った。
「わたしは、扉を叩いただけです。開けたのは・・・あなた、ご自身」
「・・・ふ」と、ダヌは莞った。今度は、血を流さぬ笑みで。
その夜。
庵には、ささやかな灯りと湯気と笑い声が満ちた。リナが匙を何度も運ぶのを。皆が、まるで奇蹟でも見るように見守った。・・・ありふれた、温かさ。けれど、それは、誰かが命がけで勝ち取った、温かさだった。
キサーラだけが、ひととき、戸口に立ち。北の空を看た。
梢の向こう。蒼い月が、いつもより、ほんの少し。まじまじと、こちらを視ているような気がした。気のせいか。・・・あるいは、目覚めた大いなる気配を。月が、訝り始めたのか。
遠からず、何かが、来る。その、かすかな予感を。
けれど、キサーラは。いまだけは、それを胸の奥に、そっとしまった。
振り返れば。灯りの輪の中で。リナが莞い、ドレクが洟をすすり、ミラが、おかわりをよそっている。・・・この、ひとときを。あと、ほんの少しだけ。曇らせたくは、なかった。
守るために来た者は。守れた夜のよろこびを。仲間と共に、ただ、しずかに味わった。
月は、まだ、遠い。




