表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/136

第四章 白樹の森 九節

挿絵(By みてみん)


九節


 森が、目を覚ましていく。


 女神が一歩進むごとに。閉ざされていた緑の闇に、光が差し、戻っていった。(おび)えて息を潜めていた精靈(アーコン)たちが。梢から、苔から、泉から。ひとつ、また、ひとつと、おそるおそる顔を出し・・・やがて、(よろこ)びの淡い光となって、女神の裾にまとわりついた。母が、(かえ)ってきた。森じゅうが、そう(ささや)き交わすように、ざわめいている。


 里に着く頃には。ダヌの血の涙は、もう乾いていた。


 ニーヴの(いおり)の、薄暗がり。(わら)の寝床に、リナは横たわっていた。ゆうべより、また痩せて。呼吸(いき)は浅く、頬は(ろう)のように白い。


 ダヌは、その枕辺(まくらべ)に、音もなく膝をついた。


「・・・まあ」と、女神は囁いた。リナの額に手をかざして。「ちいさな、いのち。こんなにも、つよく、燃えようと、している。・・・消えるものか。まだ、何も、見ておらぬのに」


 ダヌの()から。


 澄んだ水の(しずく)が、(にじ)み出た。一滴、また一滴。それは、リナの胸へ染み入り・・・娘の内なる(よど)みを探し当てていく。失われし世の毒の、黒い(おり)を。


 リナの痩せた身が、びくりと震えた。


 女神の指先が。その黒い澱を、ゆっくりと・・・手繰(たぐ)り、寄せ、引き、上げていく。深い(ふち)から汚れた水を()み出す、ように。リナの唇から、苦しげな吐息が漏れ。そして・・・す、と。楽に、なった。


 白かった頬に。ほんのり、(あか)みが差した。浅かった呼吸が、深く、ゆるやかになっていく。


 リナの(まぶた)が。ふるえて・・・開いた。


 濁りの晴れた、澄んだ瞳。それが、ぼんやりと宙をさまよい。やがて、枕辺の人影を捉えた。


「・・・(にい)、ちゃん?」


 ドレクの喉から。声にならぬものが、こぼれた。


 膝でにじり寄り。痩せた妹の手を、両の手で握りしめ。・・・そして、男は、泣いた。(かす)め、奪い、月へ刃を向けると(すご)んでみせた、その男が。子どものように、声を上げて。妹の手に(ひたい)を押しつけて。


「・・・ばか」と、リナは、まだ夢うつつの声で(わら)った。「なんで、泣いてるの。・・・あたし、おなか、すいた」


 その、あまりにありふれた、ひとことに。


 庵に詰めていた皆のこわばりが。どっと、ほどけた。


 ミラが、いちばんに笑った。涙をぼろぼろこぼしながら。「すぐ、すぐ、何か作るね。あったかいものを」と、もう(かまど)のほうへ駆け出している。・・・何も求めず。ただ、皆の無事を願う。その()らしい、まっすぐさで。


 ロウが、ふん、と鼻を鳴らし。(がら)にもなく目尻(めじり)をぬぐった。ガルドが、無骨な手でドレクの肩を、ぽんと叩いた。


 セレナは。少し離れて、それを()ていた。


 血の涙を流した、女神。いま、ちいさな人の子の額を()でて、莞っている、その姿を。・・・聖きものか、からくりの名残か。そんな問いは。もう、どこにも、なかった。ここにあるのは、ただ、慈しみ。それだけで、もう充分だと。セレナは、ようやく、そう思えた。長く胸を(ふさ)いでいた重しが。すっと、軽くなっていた。


 ダヌが立ち上がり。キサーラの傍らに歩み寄った。


「礼を、言わねば、なるまい」と、女神は言った。けれど、その声には、まだ、どこか、こわごわとしたひびきがあった。「久しく、外の風に、あたって、おらぬ。・・・(まぶ)しいの。光も。声も。・・・こうして、また、誰かの、ために、手を、動かすコトが。こんなにも、おそろしく。こんなにも・・・温かいとは」


 キサーラは、首を横に振った。


「わたしは、扉を叩いただけです。開けたのは・・・あなた、ご自身」


「・・・ふ」と、ダヌは莞った。今度は、血を流さぬ笑みで。


 その夜。


 庵には、ささやかな灯りと湯気(ゆげ)と笑い声が満ちた。リナが(さじ)を何度も運ぶのを。皆が、まるで奇蹟(きせき)でも見るように見守った。・・・ありふれた、温かさ。けれど、それは、誰かが命がけで勝ち取った、温かさだった。


 キサーラだけが、ひととき、戸口に立ち。北の空を看た。


 梢の向こう。(あお)い月が、いつもより、ほんの少し。まじまじと、こちらを視ているような気がした。気のせいか。・・・あるいは、目覚めた大いなる気配を。月が、(いぶか)り始めたのか。


 遠からず、何かが、来る。その、かすかな予感を。


 けれど、キサーラは。いまだけは、それを胸の奥に、そっとしまった。


 振り返れば。灯りの輪の中で。リナが莞い、ドレクが(はな)をすすり、ミラが、おかわりをよそっている。・・・この、ひとときを。あと、ほんの少しだけ。曇らせたくは、なかった。


 守るために来た者は。守れた夜のよろこびを。仲間と共に、ただ、しずかに味わった。


 月は、まだ、遠い。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ