第四章 白樹の森 八節
八節
その声には・・・底のない、深さが、あった。
幾星霜の孤独を湛えた、女の声。問うているのに、すでに、すべてを識っている、かのような。
「黄金の子よ」と、ダヌは言った。「そなたは、わらわに、扉を、開けと、言う。・・・されど。わらわが、この一人の娘を、癒やしたとて。月は、また、別の、いのちを、攫っていく。割れた瓶に、水を、注ぐようなもの。注いでは、漏れ、注いでは、漏れる。それでも、そなたは、注げと、言うのか」
キサーラは、応えた。
「割れているから、注がぬのですか。・・・いま、喉を渇かせている、その口は。瓶が明日、漏れるというコトを知ったなら。今日の渇きを、止めるのでしょうか」
水面が、ゆれた。
「では、問おう」と、ダヌは続けた。「わらわと、月と。何が、違う。月は、世を、損なわぬよう、いのちを、剪り、間引く。わらわは、おのが、心を、損なわぬよう、扉を、閉ざし、退いた。・・・どちらも、おのれの、安らぎのために、いのちに、背を、向けた者。わらわもまた、月と、同じ。冷たい、庭師では、ないのか」
長い、沈黙が、あった。
ドレクが、セレナが、息を詰めて見守る。・・・この問いに、誤れば。扉は、永く閉ざされる。そんな予感が、岸を満たしていた。
キサーラは、しずかに、首を横に振った。
「違います」
「何が」
「月は・・・泣きません」
水面が、はっと、静止した。
「月は、いのちを間引いて、眉ひとつ、動かさぬ。剪った枝を、惜しみもせぬ。・・・けれど、あなたは。扉を閉ざした、その奥で。幾星霜、ずっと。哭いて、おられた。違いますか。背を向けたのでは、ない。視るのが辛すぎたのです。間引く者は、心を、捨てた者。退いた者は・・・心を、捨てきれなかった者。もし、あなたが、月と同じだったなら。とうの昔に、この泉は、涸れていたはずです」
その時。
泉の水面が。中心から、盛り上がった。
ゆっくりと、水が立ち、形を結んでいく。ほどけた長い髪のような、流れ。幾重にも重ねた衣のような、波。そして・・・面が、現れた。
古の、母の貌。美しく、そして、底知れず哀しい。幾星霜を、たったひとりで耐えてきた者の貌。
ドレクが、息を呑んだ。セレナが、その場にくずおれ、両の手で口を覆った。・・・幾世、祈り、ついに誰一人見えるコトのなかった、その御姿。それが、いま、衆目の前に顕れていた。
そして、皆が、見た。
その、双の眼から。
涙が・・・こぼれていた。けれど、それは、清き水では、なかった。頬をつたい、顎へ滴る、それは。・・・紅く。血の色を、していた。
血の涙。
「・・・視られて、しもうた」と、ダヌは囁いた。涙を、隠そうともせず。「のう。黄金の子よ。そなたは、惨いコトを、する。・・・幾星霜、かけて、ようやく、凍らせた、この心を。たった、一言で。ふたたび、溶かして、しもうた。溶ければ、ほれ。このように・・・痛むのじゃ。血を、流すほどに」
ダヌの血の涙が。岸の苔へ、ひとつ、落ちた。
そして・・・その、哀しみの貌が。ふいに、きびしく、改まった。
「よかろう」と、女神は言った。「そなたの、言の葉に、免じて。扉を、開けよう。この身を、閉じた園から、出そう。・・・されど。その前に、一つ、問う。これに、応えられねば。わらわは、また、扉を、閉ざす」
気配が、キサーラを射た。
「わらわが、ふたたび、世に、出て。育み、守り・・・それでも、なお、守りきれず。慈しんだ、いのちが、目の前で、損なわれる、その時。そなたは・・・その、痛みに。責めを、負えるか。『出よ』と、わらわを、誘うた、そなたは。わらわが、ふたたび、失う、その痛みの、半分を。共に、背負う、覚悟が、あるか」
キサーラは、すぐには応えなかった。
軽々しく、「負える」とは、言えなかった。彼女には・・・まだ、わからぬコトが多すぎた。失うとは、どういうコトか。ミラを、ドレクを、この、得たばかりのはらからを、もし喪ったなら。おのれが、それに耐えられるのか。・・・識らぬ。
けれど。
「・・・負えるか、どうかは」と、彼女は言った。「正直に、申せば。わかりません。わたしは、まだ、失うコトを知らない。だから、軽々しく、負う、とは、言えません」
ダヌの眼が、すがめられた。
「されど」と、キサーラは続けた。まっすぐに、女神を看て。「一つだけ、お約定、できます。・・・あなたを、二度と、ひとりには、しません。あなたが、また、失って、哭くとき。わたしは、扉の外で、あなたを、待ってなど、いない。傍らで、共に、哭きます。背負いきれるかは、わからない。けれど、半分を、背負おうと、すること、なら。それは・・・いま、ここで、誓えます」
血の涙の貌が。
ゆっくりと・・・綻んだ。
「・・・ふ」と、ダヌは、初めて莞った。哀しみの底から滲み出るような、微笑みで。「『負える』と、言わぬか。・・・正直な、子じゃ。負えると、言い切る者ほど。いざと、なれば、逃げるもの。『わからぬ。されど、共に』と。そう、言える者だけが。まことに、傍に、いて、くれる」
女神は、水の衣をひるがえした。
「気に、入った。・・・その娘のもとへ、案内せよ。永き眠りは、もう、仕舞いじゃ」
幾星霜、閉ざされていた、奥つ宮の気が。
ゆっくりと、ほどけ、流れ出していく。岸に寄りつかなかった精靈たちが。おそるおそる、梢のあわいから覗き始めた。母の目覚めを感じ取った、かのように。
セレナは、まだ、くずおれたまま、それを見ていた。血の涙を流す、女神を。・・・からくりの名残などでは、なかった。ここに、あるのは。幾星霜の孤独に耐え、なお、いのちを想って、血を流す・・・一つの、まぎれもない、心だった。
ドレクが、震える声で、「・・・こっちだ」と、言った。「妹は・・・リナは、こっちに、いる」
黄金の観察者が。退いた女神を、外の世へと、いざなって、ゆく。
守る覚悟の真贋を問われ・・・「わからぬ。されど、共に」と、答えた者が。一柱の神を、ふたたび、世界へ、連れ戻す。
その背を。蒼い月が、梢のはるか上から。じっと、見下ろしていた。・・・幾星霜ぶりに目覚めた、大いなる気配を。月も、また、感じ取った、かのように。




