第四章 白樹の森 七節
七節
森は、奥へ進むほどに・・・深く、なっていった。
白い幹が密に立ち並び、梢が幾重にも重なって、昼の光を漉し取っていく。やがて、あたりは、夕暮れとも夜明けともつかぬ、薄明の緑に沈んだ。
そして・・・静かに、なった。
虫の音も。鳥の啼き声も。あれほど森じゅうに満ちていた、精靈たちのざわめきさえも。・・・ここには、何も、なかった。まるで、生きとし生けるものがこの奥へ足を踏み入れるコトを、太古の昔に禁じられた、かのように。
「精靈が・・・いない」と、セレナが囁いた。声を潜めずにはいられぬ、静けさだった。「あれほど近しい、あの子らが。この、宮の近くには、一柱も、寄りつかぬ」
木立が、ふいに途切れた。
ひらけた、そこに・・・泉が、あった。
円く、深く湛えられた、水。けれど、その面は、さざ波一つ立てぬ。風が撫でても、揺らがぬ。一枚の磨き上げた黒い鏡のように、ただ、じっと空を映している。岸を囲んで、ひときわ古い大樹が幾本も枝を垂れ・・・その下に、苔むした石の座が、しつらえてあった。
奥つ宮。精靈王ダヌの座す、ところ。
けれど・・・そこに、姿は、なかった。ただ、気配だけが。重く、深く、水の底に沈むように、満ちていた。
セレナが、膝を折った。岸の苔の上に。そして、額を垂れ、古い言葉で祈りを捧げ始めた。
母なる御方へ。育む者へ。森の、いのちの、源へ。・・・どうか、お聴きください。ひとつの、いのちが、消えかけております。失われし世の毒に蝕まれた、幼き娘が。御身の慈悲を賜れぬかと。
水面は・・・応えなかった。
さざ波、一つ、立たぬ。気配は、そこに、確かに在るのに。聴いている、はずなのに。・・・ただ、沈黙だけが、いよいよ深く、岸を満たしていく。
それは、留守の静けさでは、なかった。在りながら、応えぬと決めた者の。背を向けたままの。拒みの、沈黙だった。
「・・・頼む」
ドレクが、前へ出た。膝も折らず。祈りの言葉も知らず。ただ、剥き出しの声で。
「あんたが、何様か、知らねえ。けど、妹を治せる力があるってんなら。・・・頼む。あいつは、まだ、何も見ちゃいねえんだ。世界のきれいなものを、何一つ。お願いだ。俺の命なら、くれてやる。だから・・・」
水面は、揺らがぬ。
ドレクの声が、岸の大樹に吸い込まれ、消えていく。何の答えも、返らぬ。まるで、初めから誰もいなかったかのように。
ドレクは、こぶしで苔を打った。一度、二度。肩が、震えていた。
セレナの唇が、震えた。
わたしは・・・誰に、祈っているのだろう。ふと、そんなコトが頭をよぎる。ゆうべ、視てしまった、あの真実。精靈は、聖き隣人などではなく、遺された、からくりの名残。・・・ならば、この精靈たちの王とは。母とは。わたしが生涯を捧げて祈ってきた、この御方とは・・・いったい、何なのか。
その迷いが。祈りの言葉から、力を奪っていく。声が、細り、消えた。
拒みの沈黙だけが、勝ち誇るように、岸を領していた。
その時。
キサーラが、静かに水際へ歩み出た。
膝は、折らなかった。祈りも、捧げなかった。ただ、その、応えぬ水面を、まっすぐに看た。乞う目では、なく。・・・識ろうとする、目で。
胸の奥の、あの疼きが、また頭げていた。守る力を持ちながら、退いた者。他人ごとと思えぬ、その姿。
彼女は、口を開いた。
「あなたは・・・冷たい御方では、ない」
水面が、初めて。ほんのかすかに、揺れた、気がした。
「月のものらとは、違う。あの者らは、いのちを駒として弄ぶ。けれど、あなたは、違う。あなたは・・・育む者。守る者だった。だからこそ、扉を閉ざした。・・・そうでしょう?」
沈黙が。今度は、聴いていた。
「あなたは、守ろうとして。それでも、守りきれなかった。森が焼かれるのを。子らが攫われるのを。きっと、数えきれぬほど視てきた。慈しんだものを失う、痛みを。・・・だから、決めたのでは、ありませんか。もう、扉を開けぬ、と。誰も迎え入れねば。もう二度と、失わずに済む、と」
大樹の葉が、一斉にざわめいた。風も、ないのに。
「けれど」と、キサーラは続けた。その声は、責めていなかった。ただ、限りなく優しかった。「閉じた園の奥で。あなたは、いま、何をしておられますか。・・・失わずに、いるのでは、ない。少しずつ、静かに、すべてを失っているのです。あなたの沈黙の外で。森は、なお焼かれ。子らは、なお消えていく。あなたが看ぬ間に。あなたが目を閉ざした、その暗がりで」
キサーラは、水面に一歩、近づいた。
「わたしは、知っています。守る力を持ちながら、動けぬ者の哀しみを。・・・なぜ知っているのかは、わからない。けれど、知っているのです。だから、乞いには、来ませんでした。・・・ただ、お伝えしに来たのです。扉の外で。あなたを、まだ、必要としている者が、いる、と」
しん、と。
世界が、止まった、かのような、一瞬。
そして・・・泉の面が。
中心から、外へ。ひとつ、また、ひとつと。輪を描いて、揺れ始めた。幾星霜、さざ波一つ立てなかった、その水鏡が。いま、たしかに・・・震えていた。
水の底から。深く、深く。哭くような、慈しむような、底知れぬ女の気配が。ゆっくりと、立ち昇ってくる。
そして、声が、した。
森じゅうの、葉という葉を震わせて。けれど、囁きよりも、なお静かな、声が。
「・・・永きに、わたって」
水面が、ことばに合わせて揺れる。
「皆、わらわに、乞うてばかり。与えよ、救えよ、と。・・・わらわの、痛みを。この、閉じた園の、淋しさを。視た者は」
気配が。岸辺の黄金の者へ、向き直るのが、わかった。
「そなたが・・・初めてじゃ」




