第四章 白樹の森 六節
六節
それから、幾日かが過ぎた。
森は、表向きは静かだった。白銀の者らは、あれきり姿を見せぬ。けれど、その静けさは・・・息を潜めた、静けさ。誰もが、北の空を気にしていた。月の影が、いつ、また降りてくるか、と。
そして・・・リナの容態が、傾いた。
はじめは、わずかなことだった。匙を運ぶ手が、止まる。湯気の立つ薬湯を、半ば残す。けれど、日を重ねるごとに・・・痩せた頬から、血の気が引いていった。夜ごと、浅い咳が、薄い胸を揺らした。
ニーヴは、森じゅうの薬草を惜しまなかった。苦い汁を煎じ、熱を冷ます葉を額に当て、根をすりつぶして痛みを和らげた。・・・和らげる、ことしか、できなかった。
「この病は」と、ニーヴは、声を落としてキサーラに言った。「森の薬では、止められませぬ。流れを緩めるのが、精いっぱい。・・・失われし世の毒から生まれた病。これをまことに癒やす術は、もう、この地上には遺されておりませぬ」
「術が、ないのですか」と、キサーラは訊いた。
ニーヴは、首を横に振った。そして、ためらいながら・・・北の空を仰いだ。
「・・・ない、のでは、ありませぬ。あるのです。けれど・・・その術は。とうの昔に、月のものらが天へ持ち去り、封じてしまった。地上の者には、二度と触れられぬよう。癒やす力を、独り占めにして。施す相手は、月が選ぶ。リナのような、名もなき娘に・・・その慈悲が降りることは、ありませぬ」
ドレクは、戸口に立って、それを聴いていた。
こぶしが固く握られ・・・白くなっていた。かつて、銅縁の渡り手として、人の物を掠めて生きてきた男。妹のために、月へ刃を向けると誓った男。その喉の奥から、押し殺した低いものが漏れた。哭くにも似た、響きが。
「治せる、ものが」と、ドレクは言った。「天の上に、あるのか。あるのに、あいつらは・・・惜しんでいるのか。妹の命、ひとつを。退屈しのぎに、森の獣を幾百と屠っておきながら」
キサーラは、答えを持たなかった。
月の慈悲は、選ばれた者にしか降りぬ。それが、月の理。・・・いま、彼女がその手で解いてやれる縛めでは、なかった。
その時。
ずっと黙っていたセレナが・・・口を開いた。
「・・・一つだけ。道が、あるかもしれませぬ」
皆の目が、彼女に集まった。
「この森の、いちばん、奥。誰も近づかぬ、緑の闇の、その、また奥に。・・・古より在す御方が、おられます。精靈たちの、王。森の母。育む者。|精靈王ダヌ」
ニーヴの肩が、びくりと震えた。その名を口にするコトさえ畏れ多い、とでもいうように。
「ダヌ様は」と、セレナは続けた。「いのちを育み、癒やす力をお持ちと、伝えられています。失われし世の傷ですら、あるいは・・・。されど」
その声が、翳った。
「もう、幾星霜も。ダヌ様は、奥つ宮の扉を閉ざされ、誰の声にも応えませぬ。森が、焼かれても。精靈が、狩られても。同胞が、月の手に攫われても。・・・ただ、閉じた園の奥で。じっと、沈黙を守っておられる。守る力をお持ちのまま・・・何一つ、守ろうとは、なさらぬ」
キサーラの胸の奥で。なにかが、疼いた。
守る力を、持ちながら。動かぬ者。・・・遠いどこかで識っている気がする、コト。誰の、ことだったか。思い出せぬ。ただ、その姿は、ひどく哀しく。そして、なぜか・・・他人ごととは、思えなかった。
「閉じた、扉を」と、キサーラは静かに言った。「叩いて、みても、よいのでしょうか」
セレナが、目を見開いた。
「幾星霜、誰一人、応えを得られなかった扉です。あなたが叩いたとて・・・」
「応えぬ、かもしれない」と、キサーラは頷いた。「けれど。叩かねば、応えぬというコトすら、わからない。・・・リナを、ただ衰えるに任せて、待つよりは」
ドレクが、顔を上げた。その目に、消えかけていた火が、もう一度、灯った。
「・・・俺も、行く」
こうして・・・黄金の者と、その仲間らは。森の、いちばん深い、緑の闇へ。閉ざされた扉を叩くために、分け入るコトになった。
守る力を持ちながら、退いた者のもとへ。守ると決めた者が・・・会いに、ゆく。
梢の、はるか上で。蒼い月が、痩せた昼の空に白く透けて。なおも、この森を見下ろしていた。




