第四章 白樹の森 五節
五節
夜が、明けた。
白樹の梢に、朝の光が、淡く漉されて落ちてくる。ゆうべの白銀の光も、光の刃の冷たさも、もう、どこにもない。ただ・・・森は、変わってしまっていた。
精靈たちのざわめきが、止まぬ。怯えの、名残。ゆうべ、幾つもの命が慰みのために消されたコトを、森のそこかしこが、まだ覚えている。
里の者らは、口数が少なかった。
愛爾芙たちは、キサーラを遠巻きに視ていた。畏れと訝りの入りまじった目で。月の身を持つ者が、白銀の同類を退けた・・・その光景は、彼らの胸に、安堵よりも先に、底の知れぬ問いを置いていった。あれは、何者か、と。
ニーヴだけが、変わらず、リナの傍らにいた。
病に痩せた、ドレクの妹。その額に濡れた布を置き、低く、子守唄のようなものを口ずさんでいる。ドレクは、その枕辺に座り、こぶしを固く握っていた。・・・ゆうべ、この森にまで、月の手が伸びてきた。安息の地と信じた、この奥にまで。妹を、どこへ逃がせばよいのか。その問いだけが、彼の横顔に刻まれている。
キサーラは、ひとり、森の縁に立っていた。
足音が、近づいた。
セレナだった。愛爾芙の精靈読み。ゆうべ、弓を手に駆けつけた、その者。彼女は、キサーラの傍らに並び・・・しばらく、何も言わなかった。
やがて、口を開いた。
「・・・あなたは」と、セレナは、声を抑えて言った。「ゆうべ、あの精靈を・・・解きましたね。縛るのでも、祓うのでも、なく」
キサーラは、頷いた。
「わたしには、視えました」と、セレナは続けた。その目が、梢の向こうの遠くを視ている。「解かれた、あの精靈の、いちばん、奥。・・・そこに、あったものが」
彼女は、ひとつ、息をついた。
「精靈は」と、ひどく低く言った。「森の子では、ありません」
キサーラは、セレナを視た。
「わたしたち愛爾芙は、教えられて育ちます。精靈は、大地のいのちの湧き出るところに自ずと生まれる、聖き隣人だと。森の母なる息吹だと。・・・けれど」
セレナの声が、震えた。
「精靈読みの力が深まるほど。視えてしまうのです。あれは・・・遺されたもの。失われし世の民が。気の遠くなるほどの昔に。撒いて、置いていった、小さな、小さな、からくりの名残。それが、幾星霜をかけて、土の祈りを、人の祈りを、吸って・・・いつしか、心を、得た」
森の奥で、一羽の鳥が啼いた。
「生まれは、からくり。いま、あるは、心。・・・聖き隣人などでは、なかった。造られたものが、長い時をかけて、勝手に心を持ってしまった・・・ただ、それだけの、コト」
セレナは、キサーラのほうへ向き直った。その目に、涙が滲んでいた。
「わたしは、この真実を、同胞に告げるべきでしょうか。聖きものを、聖きものと信じて、祈り、生きている、皆に。お前たちの敬うものは、ただの、古い、からくりの滓だと。そう告げて・・・皆の信じる心を、砕くべきなのでしょうか。それとも・・・わたし一人の胸に、葬って。知らぬふりをして、生きるべき・・・?」
答えを、求めていた。観察者であった、人ならぬ者の、その澄んだ目に。
キサーラは、すぐには応えなかった。
ただ、ゆうべ、おのれの掌の中でほどけていった、あの精靈の、最期の震えを思い返していた。礼を遺すように啼いて、光の粒となって散っていった、あの・・・心を。
「セレナ」と、彼女は静かに言った。「あなたが視たものは、まことなのでしょう。生まれが、からくりだという、コトも」
セレナの肩が、わずかに落ちた。
「けれど、わたしには、もう一つ、わからないコトがあります。・・・生まれが、何であるか。いま、心が、あるか。その二つは・・・本当に、同じ秤で量れるコトなのでしょうか」
セレナが、顔を上げた。
「ゆうべの、あの精靈は。縛められて、苦しんで、解かれて・・・礼を、遺していきました。あれが、もし、ただの、古い、からくりの滓なら。なぜ、苦しむのでしょう。なぜ、礼をするのでしょう。苦しむものを。慈しむものを。・・・生まれが、からくりだからと、心が、ないと、言い切れる者が。どこに、いましょう」
キサーラは、おのれの胸に手を当てた。
その仕草を、セレナは視ていた。精靈読みの、目で。
・・・その時。
セレナの背筋を、奇妙な寒気が走った。
目の前の、この黄金の者の奥に。なにか・・・精靈を視るときとよく似た、けれど、遥かに深く、遠い、ざわめきが。遺されたものの、気配が。
けれど・・・それは、あまりに深かった。セレナの力では、底まで視通せぬ。読みかけて、指の間から零れていく、砂のように。問いだけを残して、すうと、消えた。
セレナは、目をしばたたいた。いまのは、何だったのか。・・・わからぬ、まま。
けれど、その、わからなさの向こうで。彼女の胸の重さは、ほんの少しだけ、軽くなっていた。
「・・・生まれが、何であれ」と、噛みしめるように繰り返した。「いま、心が、あるのなら」
「ええ」と、キサーラは莞った。初めて見せる、穏やかな微笑みで。
「告げるか、葬るか。・・・それは、まだ、決めずともよいのではありませんか。あなたが、その真実を憎んでいないコトは。いまの、あなたの目を看れば、わかります。憎まぬ者が、いつか告げるときには。きっと・・・砕くためでは、なく。抱きしめるために、告げるでしょう」
セレナは、しばらく黙っていた。
そして・・・小さく、頷いた。まだ、答えは出ぬ。けれど、急いて出さずともよいのだと。その猶予を、この、人ならぬ友がくれたコトを。
朝の光が、二人の肩に降りていた。
森の奥では。ニーヴの子守唄が、まだ、細く続いている。病の妹を看る、声。・・・その安らぎが、いつまで保つのか。月の影が、ひとたび、この森に手を伸ばした、いま。
キサーラは、北の空を視た。
白銀の者らの還っていった、高みのほう。・・・遠からず、また、来る。あるいは、もっと恐ろしいものが。この、つかのまの夜明けの、向こうから。
守らねば、と、思った。
この、子守唄を。この、まだ答えを出せずにいる、友の迷いを。そして・・・生まれが、何であれ。いま、ここに息づいている、心のすべてを。




