第四章 白樹の森 三節
三節
その夜、キサーラは、森の悲鳴で目を覚ました。
いや・・・目を覚ました、というのは、正しくない。彼女は、眠らぬ身。ただ、里の片隅で夜を過ごしていた、その耳に。森じゅうの精靈たちの、引き裂かれるような怯えの声が、突き刺さってきたのだ。
キサーラは、音もなく立ち上がった。
精靈の、悲鳴。それは、北の縁の方角から来ていた。あの夕暮れに、セレナが不安げに見やった、あの方角から。
彼女は、駆けた。白い幹の間を、夜露に濡れた苔を、踏んで。誰も、起こさずに。胸の奥に、嫌な予感を抱えて。
森の北の縁に近づくにつれ・・・その予感は、確信に変わっていった。
光が、見えた。
月の光では、ない。地上のたいまつの炎でも、ない。冷たく、白銀に輝く、人ならぬ光。そして、その光の中心で・・・何かが、起きていた。
キサーラは、木の陰に身を寄せ、そっと、その光景を観た。
数人の人影が、いた。
月の光をそのまま固めて織り上げたような、白銀の装い。地上のいかなる民とも似ぬ、冷たく、整いすぎた容貌。傷一つなく、塵一つまとわぬ、傷つかぬ身。
キサーラは・・・息を、呑んだ。
その身を、彼女は、知っていた。あまりに、よく知っていた。なぜなら・・・それは、彼女自身の身と。同じ、造りであったから。渇かず、老いず、容易には損なわれぬ・・・星の彼方の技で編まれた、写し身の身。
月の、ものたち。
月から、地上へ降りてきた者ら。
そして、彼らは・・・何を、していたか。
その足元に、一頭の森の獣が倒れていた。鹿に似た、けれど背に淡く光る苔を宿した、魔獣。生命と精靈の共生する、この森の住人。それが、白銀の者の手にした光の刃に貫かれ、こと切れていた。
白銀の者のひとりが・・・その骸を、つまらなそうに、爪先で転がした。
「なんだ、これも、手応えが、ないな」と、その者は言った。退屈しきった声で。「この森の獣は、どれも、似たり寄ったりだ。光る苔を貼り付けただけの、出来の悪い細工。すぐ、死ぬ」
「もう、幾つ、狩った?」と、別の者が欠伸まじりに問う。
「数えて、おらぬ。数える、値打ちも、ない」
彼らは・・・嗤った。
冷ややかな、退屈を持て余した者の嗤い。森の生命を、ひとつ、また、ひとつと、消しながら・・・それを、まるで暇つぶしの遊戯のように、扱っていた。
キサーラの胸の奥が・・・冷たく、凍りついた。
彼らにとって、この森は。生命の満ちる、母なる楽園では、なかった。瑞々しい、いのちのゆりかごでは、なかった。
ただの・・・退屈しのぎの、狩り場。生きとし生けるものが、手応えのある獲物か、つまらぬ細工か、それだけで値踏みされる、見世物の舞台。
地上の、すべての、命が。彼らの目には・・・遊戯の、駒に、しか、映っていなかった。
その時。
白銀の者たちのひとりが、ふと、顔を上げた。森の奥のほうへ・・・愛爾芙の里の方角へ。
「そういえば」と、その者は言った。声に、初めて、わずかな興がにじんだ。「この奥に、人型の群れが棲んでいたな。あの、耳の長い。・・・あれは、少しは、手応えが、あるかもしれぬ。逃げ惑うさまも、獣よりは、面白かろう」
キサーラの額の琥珀が・・・かっと、熱を持った。
愛爾芙を。ニーヴを。里の子らを。あの者らは、次の獲物として狩ろうとしている。生命を、命とも思わず。ただ、退屈を紛らすために。
彼女は、もう、木の陰に潜んではいなかった。
気づけば、白銀の者たちの前へ・・・歩み出ていた。
月の光に照らされ、その黄金の髪が、金の瞳が、夜の闇に静かに輝いた。
白銀の者たちが、一斉に、彼女を見た。
そして・・・そのうちのひとりが、奇妙な声を上げた。
「・・・なんだ、あれは」その者の目が、キサーラの姿をなめるように観た。「あの、身。あの、造り。・・・おい。あれは、我らと、同じ、身ではないか」
ざわめきが、白銀の者たちの間に走った。
「まことだ。地上の生身では、ない。傷つかぬ、星の身だ」
「だが・・・なぜ。なぜ、我らと同じ身の者が。よりにもよって・・・地上の塵どもの、巣の、傍らに?」
彼らは、訝った。理解、できぬ、というように。月の身を持つ者が、地上の下等な命と群れる・・・それは、彼らの頭の中には存在しない、ありえぬ様であった。
「おい、お前」と、白銀の者のひとりが、キサーラに呼びかけた。まるで出来損ないの同類を見るような目で。「お前、月の身を、持ちながら、何を、している。そんな、塵どもの、住処で。・・・まさか、あれらを、守っているのか?」
キサーラは、答えなかった。ただ、静かに、彼らを見据えていた。
彼らの嘲りの言葉は・・・不思議と、彼女の胸を刺さなかった。代わりに、彼女の中に満ちてきたのは・・・深い、静かな、哀しみと、怒りであった。
わたしも・・・と、キサーラは、思った。
わたしも、この者らと同じ、星の身を持って、この地へ降りてきた。同じ、傷つかぬ義の身をまとって。
けれど。
わたしは・・・ミラの手の温もりを、知った。ドレクの妹を想う心を、知った。塩の果てを共に渡った、はらからを、得た。地上の命の、ひとつ、ひとつが、かけがえのないものだと・・・この身で、覚えた。
この者らは。同じ身を持ちながら。それを、ついに知らぬまま。知ろうともせぬまま。地上をただの遊戯の盤と見て・・・いのちを、駒として、弄んでいる。
同じ、星から、降りた、者。
けれど・・・歩んだ道が、これほどまでに、違う。
キサーラは、ゆっくりと、白銀の者たちと愛爾芙の里の間に、立ち塞がった。その黄金の姿が、月光の下で、彼らへの明白な答えを示していた。
・・・ここから先へは、行かせぬ、と。
「守っているのか、と、問いましたね」と、キサーラは、初めて口を開いた。その声は、静かで、けれど、揺るぎなかった。「ええ。守ります。あなたたちには、わからないでしょうけれど。・・・ここに、いるのは、塵では、ありません。命です。あなたたちと、同じ、わたしと、同じ。たった一度きりの、命です」
白銀の者たちは・・・一瞬、ぽかんと、した。
そして、次の瞬間。
彼らは、嗤った。今度は、心底、面白いものを見つけた、というように。
「これは・・・傑作だ」と、ひとりが言った。その目に、退屈の翳りが消え、残忍な興が灯った。「月の身が、塵を、命だと。同類だと。・・・壊れているのか? それとも」
その者は、光の刃を構えた。
「久方ぶりに・・・手応えの、ありそうな、獲物が、現れたぞ」
森の夜気が、張り詰めた。
月の狩人と、黄金の観察者が。同じ星の身を持つ二者が・・・楽園の縁で、相対した。




