第四章 白樹の森 二節
二節
白樹の森の朝は、光で満ちていた。
セレナは、里の外れの苔むした岩に腰を下ろし、しばし、その光を浴びていた。白い幹の高みから、幾筋もの、やわらかな陽が降り、葉を透かして、緑に染まる。風が渡るたび、若葉の香りが、あたりに薫う。塩の果ての、あの渇いた死の地を思えば・・・ここは、まるで別の世界であった。
仲間たちも、それぞれに、この、つかの間の安らぎを味わっていた。
ドレクは、妹リナの枕辺を離れなかった。長い旅の疲れも見せず、ただ、妹の寝顔を、飽かず看ていた。ミラは、愛爾芙の里の何もかもが珍しいらしく、木の上の家々を、編まれた蔓の橋を、目を輝かせて眺め歩いた。ガルドは、愛爾芙の織る精緻な木細工に、職人の唸りを漏らしていた。ロウは・・・里の愛爾芙たちの刺すような視線に晒されながら、それでも動じず、岩陰で、毛づくろいをしていた。
そして、キサーラは。森の奥のほうへ、静かな目を向けて、何かを観ていた。精靈の満ちる、この森を。あるいは、その奥に潜む、母なる気配を。
平穏であった。
けれど・・・セレナの胸は、安らいではいなかった。
久方ぶりに踏んだ、同胞の地。なのに、ここは、もう、かつてのように彼女を抱いてはくれなかった。
愛爾芙たちは、よそ者を、決して歓迎しなかった。
彼らは、おのれたちを、精靈に選ばれし、高貴な種族と信じていた。森の奥に閉じこもり、外の世界の汚れにも、争いにも関わらず、母なる精靈王の庇護のもと、永い、永い、楽園の時を生きてきた。人間も、杜瓦夫も、狼獣人も・・・森の外で、あくせくと生き、いがみ合い、短い命を燃やす、下等な者ら。愛爾芙の里の年経た者たちは、一党を、そのような目で看ていた。
とりわけ、ロウへのまなざしは、冷たかった。獣の血を引く者・・・愛爾芙にとって、それは、最も忌むべき、境の存在。一人の白髪の老愛爾芙などは、ロウとすれ違いざま、ふっと、鼻先で嗤った。聞こえよがしの、侮りの笑い。
セレナの胸が、痛んだ。
かつての、彼女ならば。あの嗤いを、当然のことと受け止めたかもしれない。愛爾芙が他種族を見下すのは、生まれた時から刷り込まれた、当たり前のことだったから。
けれど・・・今は。
セレナは、知ってしまった。ロウの孤独を。あの男が、群れに馴染めず、ただ一匹で生きてきた、その痛みを。そして、塩の果てで、あの狼獣人が、誰よりも確かに群れを守ろうとした、その心を。
旅が・・・セレナを、変えてしまった。
外の世界の広さ。種族を越えて結ばれる、絆。そして・・・精靈の、まことの姿。
セレナは、岩の上で、そっと目を閉じた。
ナブーの恩寵が宿って以来。彼女には、精靈の声の、その奥が聴こえるようになっていた。声だけではない。その、長い歳月の記憶。喜びも、悲しみも、孤独も。
そして、彼女は、知っている。精靈が、神でも、自然の魂でも、ないことを。それが、失われし世の古の叡智の民が遺した、小さき機の名残であることを。気の遠くなる歳月を経て、心を得た・・・いわば、心ある隣人であることを。
この、真実を。
セレナは、同胞に明かすべきだろうか。
愛爾芙の信仰は、精靈を、神聖な母なるものとして崇めることの上に、築かれている。その精靈が、実は造られた機の名残だと明かせば・・・同胞は、どうなる。信仰の根が、揺らぐ。あるいは、セレナの味わったような深い失意に、突き落とされる。すべての者が、その失意を、より深い敬いへと昇華できるとは、限らない。中には、信仰を捨て、荒む者も出よう。永い楽園の静けさが、乱れるかもしれぬ。
けれど・・・黙していれば。
それは、同胞を欺くことに、ならぬか。まことを知りながら、知らぬふりをして、偽りの楽園に共にまどろむこと。それは、正しいことなのか。
「セレナ」
声に目を開けると。ニーヴが、傍らに立っていた。リナを匿ってくれた、若い愛爾芙。
「浮かない、顔ね」と、ニーヴは、岩に並んで腰を下ろした。「外の世界は・・・あなたを、変えたみたい」
「ええ」と、セレナは静かに莞った。けれど、その微笑は、すぐに翳った。「ニーヴ。わたしね・・・見てきたの。精靈の、まことの姿を。同胞が、誰も知らない・・・いいえ、知ろうともしなかった、真実を」
ニーヴは、何も言わなかった。ただ、静かに、セレナの次の言葉を待っていた。
セレナは、迷った。明かすべきか。この、優しい、開かれた心を持つ、ニーヴになら。
けれど・・・口を開きかけて、彼女は、止めた。
まだ、だ。まだ、その時ではない。この真実は、あまりに重い。ニーヴ一人に背負わせるには。そして、里じゅうに明かすには・・・あまりに、危うい。
「・・・いいえ」と、セレナは、首を振った。「いつか。いつか、話す。きっと。でも、今は・・・まだ」
ニーヴは、深くは問わなかった。ただ、セレナの手に、そっと、おのれの手を重ねた。
「あなたが、話したくなったら。いつでも、聴くわ」
その温もりに・・・セレナの迷いは、消えなかった。けれど、少しだけ、軽くなった。一人で抱えなくても、よいのだ、と。
日が、傾き始めた。
白い幹の間に夕陽が差し込み、森じゅうが、淡い紅に染まっていく。葉という葉が丹い、燃えるように輝いた。愛爾芙の里に夕餉の煙が立ち、子らの笑い声が響く。
楽園の穏やかな、暮れ方であった。
・・・その時。
セレナの耳が、ふと、ある、ざわめきを捉えた。
精靈たちの、声。けれど、いつもの安らかなささやきでは、なかった。森の北の縁のほうから。不安げな、怯えたような・・・何か好ましからぬものが近づいている、とでもいうような、さざめき。
セレナは、立ち上がり、北の暗がりへと目を凝らした。
けれど・・・そこには、もう夕闇が降りていて。何も、見えなかった。気のせい、だろうか。彼女は、胸のざわつきを抑えて、里へと戻っていった。
誰も、知らなかった。
その、森の北の縁。夕闇の、いちばん深いところに。
ひとつの、影が、立っていた。
月の光をそのまま纏ったような・・・白銀の、装い。地上のいかなる民とも似ぬ、冷たく、整いすぎた佇まい。その者は、瑞々しい森を、楽園を、まるで・・・退屈な見世物でも眺めるかのように見下ろし、そして、薄く嗤った。
白銀の影は、ひとつ、ではなかった。その背後の闇に。同じような影が、幾つも、ひそんでいた。
月の手が。
ついに、ダヌの楽園の縁に。
届いていた。




