第四章 白樹の森 一節
一節
塩の果てを発って、幾日が過ぎた。
告死天使は、戻ってこなかった。あの知の館の前で、ナブーの光に退けられたのち・・・月の態勢を整え直すために、いったん引いたのだ。次に相まみえるときは、ひとりではあるまい。されど、その猶予が、今、一党に北への道を開いていた。
キサーラたちは、その隙を衝いて、塩ノ原を北へと横切っていった。
歩くほどに・・・世界が、変わっていった。
あの、見渡すかぎりの白い塩の大地が。少しずつ、その色を失っていく。白が、灰に、灰が、淡い土の色に。やがて、足元に、ぽつり、ぽつりと・・・緑が、芽吹き始めた。乾ききった塩の隙間から、頭をもたげる、小さな草。
キサーラは、足を止めた。
その、一本の草を・・・じっと、観た。
生命であった。塩でも、岩でも、ない。みずから生きようとする、緑のいのち。塩ノ原では、ついぞ見なかったもの。彼女の知識のいちばん深いところには、無論、植物の理が蓄えられている。されど・・・こうして、肉の目で、塩の世界の縁に芽吹く最初の一本を見るのは。初めてであった。
風が、変わった。
乾いた塩の匂いが退き・・・しっとりとした、土の水の青い葉の匂いが満ちてくる。キサーラの人ならぬ身は、渇きを知らぬ。けれど、その水を含んだ風に頬を撫でられたとき・・・胸の奥が、ふしぎと緩んだ。
「見て、キサーラ!」
ミラが、声を上げた。指のさす先。
森が、あった。
地平を埋めて・・・白い、巨大な樹々の群れ。塩のように白い、けれど塩とはまるで違う、生きた白。その梢は空を覆い、葉は風にさざめき、幾千万の緑の声で、ささやき合っていた。
白樹の森。
キサーラは、しばし言葉を失って、その森を見つめた。
塩の果てでは・・・精靈たちは、薄く、痩せ、消えかけていた。水のない地では、生命の名残たる彼らも、力を保てなかったのだ。けれど、ここは。
森に近づくにつれ・・・精靈の気配が、濃くなっていく。木々の間に、葉の影に、苔むした岩の陰に。無数の小さな、温かなまなざしが息づいている。塩の果てとは、まるで逆。ここでは、精靈たちが、満ち、潤い、生き生きとしている。
「すごい・・・」と、ミラが息を呑んだ。「精靈さんたちが、こんなに・・・」
「この森を、統べる、御方が、おわすゆえ」と、セレナが静かに言った。愛爾芙の精靈読みの、その碧い目に、深い敬意が宿っていた。「白樹の森の精靈王。愛爾芙の母なる守り手。・・・水と、生命を、司る御方」
水と、生命。
キサーラは、思った。塩の海が干上がり、世界が渇いていく、その中で。この御方は・・・森をひとつの潤いの楽園として、守り抜いてきたのだ。気の遠くなる歳月を。
森の縁にたどり着くと。
樹々の影から、音もなく、幾つかの人影が現れた。
愛爾芙たちであった。すらりと背が高く、肌は白く、瞳は森の緑。手には、白木の弓。その矢尻は、まだつがえられてはいない。けれど、いつでもつがえられる構えで・・・よそ者たる一党を、静かに見据えていた。
森は、来る者を歓迎してはいなかった。
張り詰めた沈黙。やがて、愛爾芙たちの間を分けて・・・ひとりの若い愛爾芙が、進み出た。
「・・・ドレク」と、その者は言った。「戻ってきたのね」
「ニーヴ」
ドレクの声が、震えた。
リナを・・・妹を預けた愛爾芙。ニーヴ。その顔を見た瞬間、ドレクの張り詰めていた肩から力が抜けるのが、キサーラにはわかった。
「リナは」と、ドレクは言った。ほとんど、それだけを言うために、この長い危険な旅を生き延びてきた、とでもいうように。「リナは、無事か」
ニーヴは、わずかに微笑んだ。
「会えば、わかる。・・・おいで」
森の奥へ。
愛爾芙たちに導かれ、一党は白樹の森へと、足を踏み入れた。
森の中は・・・別の世界であった。白い幹の間を縫って、やわらかな光が降り、苔の絨毯が足音を吸い込む。澄んだせせらぎ。鳥の歌。そしていたるところに息づく、精靈たちの温かな気配。塩と、渇きと、死の塩ノ原とは・・・何もかもが逆の、いのちの満ちる場所。
その奥に、愛爾芙の里があった。白樹の巨木の洞や、枝の上に編まれた、木の家々。
そして、その一軒の戸口に。
ひとりの少女が、立っていた。
痩せた、けれど・・・頬にわずかに赤みのさした少女。リナであった。
「兄さん!」
リナが、駆け寄る。ドレクが、その小さな体を抱きとめる。
「リナ・・・」ドレクの声は、もう言葉にならなかった。妹の髪に顔を埋めて、ただ、その存在を確かめていた。「会いたかった・・・無事で・・・よかった・・・」
キサーラは、その兄と妹の姿を・・・少し離れて、看ていた。
ドレクが、なぜ保身に汲々とし、なぜ危険を承知で塩の果てまで来たのか。すべては、この再会のためだった。この、小さな、温かな命を守るため。キサーラの胸に、あの名のつかぬ温かいものが・・・また、静かに満ちた。
けれど。
リナを抱くドレクの、その腕の中で。少女の胸が、ふいに小さく震え・・・こもった咳が、漏れた。
ひとつ。ふたつ。
ドレクの顔が、こわばった。
「愛爾芙の薬草で、ずいぶん楽にはなっているわ」と、ニーヴが静かに言った。その声に、けれど、翳りがあった。「咳も、熱も、前ほどではない。・・・でも」
「治っては、いない」と、ドレクが低く言った。
ニーヴは、答えなかった。それが、答えであった。
愛爾芙の薬草は、リナの病を和らげる。けれど、根を断つことは、できない。あの失われし世の毒が、少女の胸を蝕み続けている。そして、それをまことに癒す術は・・・月が独り占めにし、地上の民には決して与えぬ、旧き叡智の医の中に、しか。
ドレクの腕に、力がこもった。妹を抱きしめながら・・・その目は、もう別のものを見ていた。月を。妹を見殺しにする、あの白銀の神々を。
「・・・必ず」と、ドレクは誰にともなく呟いた。「必ず、取り返してやる。お前を治す術を」
リナは、その言葉の意味を知らぬまま・・・ただ、兄の胸に頬を寄せて、嬉しそうに笑っていた。
キサーラは、その光景を看ながら・・・ふと、森の奥へと視線を向けた。
森の、いちばん深いところ。そこに・・・この潤いの楽園を統べる御方の気配が、あった。濃密な、生命の源。すべての精靈がそこから湧き出し、そこへ還っていく、母なる中心。
まだ、姿は見えぬ。けれど・・・確かに、いる。
水と生命を守り抜いた、精靈王。古の叡智の同族。
キサーラは、いずれその御方にまみえることになると、感じた。志を継いだ者として。月に抗う者として。そして・・・同じ古き根を持つ、はらからとして。
その時。
森の北の縁の方角から。ほんのかすかに・・・精靈たちのざわめきが、伝わってきた。
不安げな、ざわめき。何か好ましからぬものが森の外れに近づいている、とでもいうような。
キサーラだけが、それに気づいた。
誰も、まだ知らない。けれど・・・この潤いの楽園の静けさの、そのずっと向こうから。
白銀の影が。
ゆっくりと、忍び寄りつつ、あることを。
北の森の長い物語が・・・今、始まろうとしていた。




