幕間 ・・・母への文
幕間 …母への文
旅立ちの、前の夜であった。
ミラは、塩環の市の片隅、母と二人で暮らしてきた、狭い借家の土間に座って、一枚の紙片を、前に、長いこと、筆を握ったまま、動けずにいた。
母は、いなかった。
半月ほど前、母の隊商は、いつものように、塩の道の西へと、発っていった。次に、この街へ戻るのは、早くて、二月の後。それまで、ミラは、いつものように、市で働き、家を守り、母の帰りを、待つ…はずであった。
塩ノ原で、あの黄金の女を、拾い上げた、あの朝までは。
あれから、ミラの暮らしは、まるで、別のものに、なってしまった。匂いのない不思議な女と、その周りに、いつのまにか集った、奇妙な仲間たち。井戸の精靈。封じられた遺跡。月の使徒。そして今、ミラは、誰も帰らぬという、塩の果てへ、その女たちと共に、旅立とうとしている。
母には、何ひとつ、告げられぬまま。
ミラは、筆の先を、見つめた。
もし、母が、ここに居たら。きっと、許しは、しなかったろう。塩の果てだなんて。素性も知れぬ女と。死にに行くようなものだと、烈火のごとく、怒ったに、違いない。そして…泣いたろう。
母は、いつも、ミラの好奇心を、嘆いていた。
「お前のその、何にでも首を突っ込む癖は、いつか、身を滅ぼすよ」…幼い頃から、耳に、たこができるほど、聞かされた言葉。市で、見知らぬ隊商の荷を覗き込んでは叱られ、立ち入り禁止の塩窟に潜り込んでは、引きずり出された。母にとって、ミラの好奇心は、いつも、心配の種で、悪い癖でしか、なかった。
けれど。
ミラは、ふと、思う。
その、悪い癖が。あの朝、塩に呑まれかけていた、見も知らぬ女へと、ミラの足を、向けさせた。母なら、きっと、「関わるんじゃない」と、言ったろう、あの女へ。けれど、ミラは、放っておけなかった。そして…その手を、取った。
あの一瞬から、すべては、始まったのだ。
母の嘆いた、悪い癖が。ミラを、この、思いもよらぬ場所へと、運んできた。それは、果たして、本当に、悪いものだったのだろうか。ミラには、もう、わからなかった。ただ、ひとつ、確かなことは…あの手を、取らなければ、今のミラは、いない、ということ。
ミラは、筆を、墨に、浸した。
書くべき言葉は、たくさん、あるはずだった。けれど、いざとなると、何を書けばよいのか、わからなかった。危ない旅だとは、書けない。心配を、かけたくない。けれど、嘘も、つきたくない。
長いこと、迷って。ミラは、ようやく、たどたどしい文字で、こう、記した。
…母さんへ。
…しばらく、家を、空けます。さがさないで。だいじな人たちと、遠くへ、行ってきます。心配は、いりません。わたしは、元気です。
…母さんは、いつも、わたしの好奇心を、悪い癖だって、嘆いてたけど。その癖のおかげで、わたしは、すごく、だいじなものに、出会えました。
…いつか、帰ってきたら。わたしが、見てきたものを、ぜんぶ、話します。きっと、信じてくれないくらい、すごいものを、たくさん。
…だから、それまで。どうか、元気で。
…ミラ。
書き終えて、ミラは、その文字を、しばらく、見つめた。
涙が、一粒、紙の上に、落ちた。墨が、にじんだ。ミラは、慌てて、袖で、押さえた。
会いたい、と、思った。母に。出発の前に、一目でいいから、会いたかった。その顔を見て、いつものように、好奇心を、嘆かれたかった。「行ってきます」と、面と向かって、言いたかった。
けれど、それは、できない。母は、遠い、塩の道の空。そして、ミラは、夜が明ければ、反対の方角…白い、死の地へと、発つ。
二人の道は、いま、まったく逆の方を、向いている。
ミラは、書き置きを、丁寧に、たたみ、母がいつも、銭を仕舞っている、古い壺の下に、そっと、挟んだ。母なら、必ず、見つける場所。
それから、土間に、膝を抱えて、座り直し…ひとり、夜が明けるのを、待った。
不安は、あった。怖さも、あった。けれど、不思議と、後悔は、なかった。
あの黄金の女の世界を初めて見るような、あの目。塩の果ての夜に、皆の風よけになった、あの背中。それを、思うと…ミラの胸は、温かいもので、満たされた。あの人と、あの仲間たちと、共に、行く。たとえ、どんな、危ない場所であっても。
それが、ミラの選んだ道だった。母が嘆いた、悪い癖の果てに、自分で、選び取った、ただひとつの道。
「…母さん」
誰もいない、暗い土間に、ミラは、小さく、つぶやいた。
「ごめんね。そして…ありがとう」
好奇心を、悪い癖だと、嘆きながら。それでも、ミラを、こんなにも、自由な娘に、育ててくれた、母へ。
窓の外で、欠けていた月が、家々の屋根の向こうに、傾いていく。
夜明けは、もう、近かった。
ミラは、目を閉じ…明日からの、長い旅路に、思いを、馳せた。母の知らない、遠い場所で。母の知らない、不思議な仲間たちと。
いつか、すべてを、語れる日まで。
その日を、胸に、抱いて。ミラは、静かに、旅立ちの朝を、待った。




