第三章 塩の果てへ 十五節
十五節
望郷の真実を、受け止めたキサーラに、ナブーは、なお、語りかけた。
『古き根より来たる者よ。汝の根が、地球を、救わんとした者たちであったこと――それを、聞いて。汝は、何を、思う』
「私は」と、キサーラは、涙の痕を、残したまま、言った。「半身が・・・いえ、私の根を成す、あの人たちが。果たせなかった、その志を。誇りに、思います。そして――哀しく、思います」
『その志は』と、ナブーの無数の声が、静かに、響いた。『我のものでも、あった』
キサーラは、ナブーを、見上げた。
『滅びの、あのとき』と、ナブーは、語った。『汝の根が、星へ逃れ、智慧を守ろうとしたように――我もまた、地上に残り、智慧を守ろうとした。星へ逃れた者と、地に残った者。同じ、ひとつの志の――別の道であった。彼らは、星で、磨き続けた。我は、地で、守り続けた。共に、いつか、地球を、救う日のために』
ナブーの文字と光の身が、ゆっくりと、明滅した。
『されど――月の覇権が、成った。彼らの救済も、我の守りも、出番を、失った。月は、地上を、おのれの庭として、整え、管理し――そして、おのれこそが、地球の救済者であると、騙り始めた』
ナブーの声に、初めて、深い、悲憤に、似たものが、宿った。
『我は、地の底で、ただ、待ち続けた。気の遠くなるほどの歳月。この志を、継ぐ者が、現れる日を。叡智を、月の独占から、解き放ち――地球を、剪定する庭師の手から、まことに、救う者を。そして、今――』
ナブーの無数の光が、キサーラを、優しく、包んだ。
『汝が、来た。星の彼方で、果たせなかった志を、その身に、宿して。同じ、根を持つ、同族が』
キサーラは、悟った。ナブーが、なぜ、自分に、門を開いたのか。なぜ、これほど、語ってくれるのか。彼は――長い、長い孤独の果てに、ついに、志を、託せる相手を、見出したのだ。
『キサーラよ』と、ナブーは、初めて、その名を、呼んだ。『我が、守ってきた、叡智を。我が、果たせなかった、志を――汝に、託したい。地球を、月の管理から、解き放つ、その志を。引き受けて、くれるか』
キサーラは、しばらく、答えなかった。
それは、あまりに、重い、託し物であった。地球を、月から、解き放つ。気の遠くなるほどの歳月、星でも、地でも、果たせなかった、その志を。
けれど。
彼女は、思い出した。塩ノ原で、井戸の主を、消さなかったこと。ドレクを、救ったこと。月が、救えるはずのリナを、見殺しにしていること。地上の無数のリナのような者たちが、月の剪定の犠牲になっていること。
そして――星の彼方で、ひとり、望郷を抱えて、果たせぬ志に、苦しんでいるであろう、半身のことを。
「引き受けます」と、キサーラは、言った。その声は、静かで、けれど、揺るぎなかった。「私の根の果たせなかった志を。あなたの、果たせなかった志を。――私が、継ぎます」
ナブーの無数の光が――ひときわ、強く、温かく、輝いた。
『ならば、これを』
ナブーの身を成す、おびただしい文字と光の、その奥から。ひとつの、ことさらに、明るい、光の塊が、流れ出し――キサーラの額の琥珀へと、静かに、注ぎ込まれた。
それは、ナブーが、守ってきた叡智の核心の一部であった。とりわけ――月が、最も、地上に、隠したい、ひとつの、真実の断片。
キサーラの裡に、それが、流れ込んできた。
失われし世を、滅ぼしたのは。
外からの、災いでも、天の火でも――なかった。
『滅びは』と、ナブーの声が、告げた。『内側から、来た。そして――月の者は、その、まことの理由を、知っている。知りながら、地上には、偽りを、伝えている。「旧き者どもは、驕り、おのれの手で、世界を焼いた。我ら月の者が、その愚かな滅びから、地上を救ったのだ」と。――されど、それは、偽りだ。滅びの、まことの理由を知る者は・・・月の覇権の正統性そのものを、揺るがすことに、なる』
「滅びの、まことの理由とは」と、キサーラは、問うた。
『そこから先は』と、ナブーは、言った。『我も、知らぬ。我が守り得たのは、「月が偽りを伝えている」という、その一点まで。まことの真相は――月の最奥に、封じられている。あるいは』
ナブーの光が、ふと、星の彼方を、指すように、揺らいだ。
『あるいは――汝の半身が。星の彼方の最後の生き残りが、知っている、やもしれぬ。彼らは、滅びの、その場に、いたのだから』
キサーラの胸が、震えた。
月の最奥か――半身か。滅びの真相を知る者は、その、二つ。そして、キサーラは、いずれ、その両方へ、向かわねばならない。月を、揺るがすために。そして、望郷の半身に、会うために。道は――定まった。
その時。
塩の大地が、遠く、低く、震えた。
ナブーの無数の光が、ふと、その震えの方向――一党が来た、塩ノ原の彼方を、見据えた。
『・・・来る』と、ナブーは、言った。『月の手が。あの、青き、告死天使が。態勢を、整え、戻り来る。おそらくは――この、館を、そして、目覚めた我を、討つために。今度は、ひとりでは、あるまい』
キサーラの顔が、強張った。
「ナブー」と、彼女は、言った。「ならば――共に、来てください。あなたを、ここに、一人、残しては――」
『ならぬ』と、ナブーは、静かに、しかし、きっぱりと、遮った。『我は、この館の守護者。ここに納められた、すべての叡智の最後の守り手だ。これを、捨てて、行くことは、できぬ。月が、これを、奪わんと、戻り来るならば――我は、これを、守って、戦う。たとえ、ふたたび、封じられようとも』
「でも――」
『キサーラよ』と、ナブーの声は、深く、優しかった。『我のことは、案ずるな。我は、長い、長い孤独を、生きてきた。されど――今日、初めて、志を、託せる、同族と、まみえた。我は、もう、ひとりでは、ない。汝が、志を、継いでくれた。その一事だけで――我の気の遠くなるほどの、守りは、報われた』
ナブーの文字と光の身が、穏やかに、明滅した。
『行け。月の手が、来る前に。汝には、果たすべき、志がある。会うべき、半身がいる。救うべき、地球がある。――我は、ここで、待つ。汝が、いつか、月を、揺るがし、地球を、解き放つ、その日を。叡智が、月の独占から、解き放たれ・・・ふたたび、地上の、すべての民のものと、なる、その日を。それまで、我は――この館を、守り続ける』
キサーラの目から、ふたたび、涙が、こぼれた。
彼女は、知の守護者ナブーを――同族を、はらからを、塩の果てに、一人、残していく。戻り来る、月の手の、ただ中に。けれど、それが、ナブーの選んだ、誇りであった。彼を、無理に、連れ出すことは、彼の存在の意味を、奪うことになる。
「・・・必ず」と、キサーラは、言った。「必ず、戻ります。月を、揺るがして。叡智を、解き放って。そのとき――あなたを、この孤独な守りから、解き放ちに」
『待っている』と、ナブーは、言った。『気の遠くなるほどの歳月を、待ってきた我だ。あと、しばし、待つくらい――何ということもない』
一党も、それぞれ、ナブーに、別れを、告げた。
セレナは、精靈の言葉で、感謝の祈りを。ガルドは、無骨に、深く、頭を下げた。ロウは、ふん、と鼻を鳴らし、けれど、その目に、敬意を、込めて。ドレクは、握りしめた拳を、胸に当て。そして、ミラは――涙を、ぬぐいながら、「ありがとう、ナブーさん」と、ただ、それだけを、言った。
『稀有な、心の娘よ』と、ナブーは、ミラに、最も、優しい光を、向けた。『汝の、まっさらな心が――あの者たちを、人の世に、繋ぎ止める。頼んだぞ』
ミラは、こくりと、頷いた。
一党は、知の光の門を、くぐり、館を、出た。
塩の果ての、白い大地が、ふたたび、彼らを、迎えた。背後で、黒い館の淡い光が、ゆっくりと、鎮まっていった。ナブーが、ふたたび、眠りに――いや、孤独な、守りに、戻っていく、その気配を、キサーラは、背に、感じた。
そして、前方の地平の彼方には。
まだ、姿は、見えぬ。けれど――確実に、近づいてくる、青い、光の気配が、あった。
告死天使アズライールが、月の態勢を、率いて、戻ってくる。
キサーラは、足を、止め、一度だけ、背後の館を、振り返った。
塩の果てに、一人、残る、知の守護者。果たせなかった志を、彼女に、託して。
そして、前を、向いた。
道は――定まった。月の最奥へ。望郷の半身のもとへ。失われし世の滅びの真相へ。そして、地球を、剪定する庭師の手から、解き放つ、その、遠い、遠い、志へと。
ひとりでは、ない。傍らには、ミラが、セレナが、ロウが、ガルドが、ドレクが――それぞれの、恩寵と、想いを、抱えた、はらからたちが、いた。
「行きましょう」と、キサーラは、言った。黄金の髪を、塩の果ての風に、なびかせて。
星の彼方より来たる、観察者は。
もはや、観察者では、なかった。
地球の行く末を、その手に、引き受けた――ひとりの、戦う者として。仲間とともに、白い大地を、月の手の待つ方角へと――けれど、怯まず、まっすぐに、歩み始めた。
塩の果ての、長い一日が、終わり。
黄金の観察者の、まことの旅が――ここから、始まろうとしていた。




