第三章 塩の果てへ 十四節
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十四節
友らへの恩寵が、すべて、終わると。
知の守護者ナブーの無数の光が、ゆっくりと、キサーラへと、向き直った。
文字と光で編まれた、その巨大な存在は、ほかの誰に対するときとも、違う、まなざしを、湛えていた。それは――敬意でも、警戒でもなく。長く、長く、離れていた、はらからを、見つめる、まなざしであった。
『さて、古き根より来たる者よ』と、ナブーは、言った。『汝は、おのれが、何者かを、知った。星の彼方へ逃れた、古き知性の枝であると。されど――その、根が。いかにして、星の彼方へ、辿り着いたのか。それを、汝は、まだ、知るまい』
「ええ」と、キサーラは、答えた。「教えて、ください。私の――半身の始まりを」
ナブーは、語り始めた。
失われし世の滅びが、迫っていた、その頃。
古の叡智の民の中に、ひとつの、一団が、いた。彼らは、滅びゆく、この地球を――故郷を――救わんと、願った者たち。あらゆる智慧を、あらゆる技を、研ぎ澄まし、迫りくる滅びから、世界を、救おうと、した。
けれど――間に、合わなかった。
滅びは、彼らの、智慧よりも、速かった。世界は、焼かれ、地は、毒に、染まっていった。彼らは、悟った。このままでは、おのれたちも、滅びとともに、潰える。そして、滅べば――救済の智慧も、技も、すべて、失われる。
ゆえに、彼らは、決断した。
いったん、退く。遠き、星の彼方へ。誰の手も、届かぬ、安全な場所へ。そこで、智慧を、守り、磨き続け――いつか、滅びの傷が、癒えたとき。ふたたび、故郷へ、戻り、世界を、救う、礎と、なるために。
彼らは、肉体のまま、行ったのでは、ない。長い、長い、星の旅に、肉体は、耐えられぬ。ゆえに、彼らは――おのれを、知性のみとし、機に、託して、星の彼方へと、逃れた。
『そこまでが』と、ナブーは、言った。『我が、知る、すべてだ。彼らが、星の彼方で、いかに在ったか。いかなる歳月を、過ごしたか。それは――遠すぎて、我が記録には、届かぬ』
ナブーの語りは、そこで、途切れた。
けれど――キサーラの裡で。
その、途切れた先が。静かに、つながり、始めていた。
彼女は、ずっと、抱えていた。あの、記憶の、いちばん底にある、冷たさ。光なき、音なき、果てしない、凍てついた深み。塩ノ原に降りた夜から、ふとした拍子に、彼女を、捉えてきた、あの、寒さ。
それが――何であったかが。今、わかった。
星の彼方の深み。彼らが、逃れた、その場所。
そして、その深みで――何が、起きたのか。
キサーラの裡に、半身から、受け継いだ、おぼろげな、記憶が、よみがえってきた。
彼らは、待った。滅びの傷が、癒えるのを。故郷へ、戻れる日を。けれど――待つ歳月は、あまりに、長かった。機に託した知性とて、永遠では、ない。ひとり、また、ひとりと――倒れていった。
倒れた者は、消えたのでは、ない。残された者たちが、その人格を、おのれの、思考の補助として、組み込んでいった。一つの、より大きな、知性へと、統合しながら。失われぬように。智慧を、絶やさぬように。
そうして――ひとり、減り。また、ひとり、減り。
最後に。
ただ、ひとりが、残った。
すべての、仲間の人格を、その身に、抱えた、最後の、ひとり。地球を救わんとした、あの一団の――最後の生き残り。
その、最後のひとりの、人格の残滓こそが。
キサーラの――半身。そして、キサーラ自身の根、であった。
キサーラは、思わず、おのれの、胸に、手を、当てた。
私の根は。仲間を、すべて、看取り、その人格を、抱え、たったひとり、星の彼方の凍てついた深みで――故郷を、救う日を、待ち続けた、者だったのだ。
けれど。
ここに――最も、切ない、真実が、あった。
『そして』と、ナブーの声が、静かに、キサーラの思いを、引き取った。『彼らが、星の彼方で、智慧を磨き続けているあいだに――地上では、別のことが、起きていた』
月の覇権が、成った。
星へ逃れた者たちとは、別の道を、選んだ者たち――月へ、逃れ、おのれを造り変えた者たちが。滅びた地上を、見下ろし、それを、おのれの庭として、整え、管理し、新たな民を、育て――地上に、一応の平安を、もたらした。
月の管理による、平安。
それは――星の彼方の彼らにとって、何を、意味したか。
彼らの、救済は。もう、要らなく、なったのだ。
地球は、すでに、「救われて」いた。月の手によって。彼らが、命を、智慧を、幾星霜を、賭けて、磨き続けた、救済の術は――出番を、失った。そして、彼らは。
帰る、口実すら、失った。
救うべき故郷は、すでに、他者の手で、整えられていた。今さら、戻って、何を、するのか。月の箱庭を、乱すのか。彼らの、志は――宙に、浮いた。果たされぬまま、行き場を、失って。
ゆえに、最後のひとりは。ただ、観測を、続けた。遠き皨から、故郷を、見つめ続けた。帰ることも、できず。志を、果たすことも、できず。仲間は、もう、皆、その身の裡。話す相手も、いない。ただ、ひとり、凍てついた深みで――故郷を、見つめ続けた。
感情を、表現する、方法すら、忘れるほどの、長い、長い、孤独の中で。
キサーラの金の瞳から。
涙が、こぼれた。
彼女は、初めて、知った。半身の孤独の深さを。果たせぬ志を、抱え、帰る口実を、失い、仲間を、すべて、おのれの裡に、看取って――ただ、故郷を、見つめ続けた、その、気の遠くなるような、孤独を。
そして――ひとつの、予感が。彼女の胸に、芽生えた。
なぜ、半身は。今、私を、送ったのか。
遠き皨からの、観測は、限られている。故郷の近年の移ろいには、大きな、欠落がある。その、欠落を、埋めるため――それが、表向きの、理由。観るために、私を、送った、と。
けれど。
それだけ、だろうか。
キサーラは、思い出した。第二章の、あの夜。同期の中で、感じた、半身の困惑。「それは、何か」と、感情の名を、問うてきた、あの、たどたどしさ。感情を、忘れかけた、知性。
けれど――その、忘れかけた感情の、いちばん、奥の底に。
たったひとつ、消えずに、残っていたものが、あったとすれば。
それは――故郷を、思う、心。
望郷。
幾星霜、帰れなかった、故郷。地球。それを――せめて、おのれの、写し身の目で。見たい。触れたい。その地を、踏みしめたい。
キサーラは、おのれの、姿を、見下ろした。
金の髪。金の瞳。黄金の衣。額の琥珀。
――観るだけ、ならば。
こんな、目立つ、姿は、要らなかった。もっと、地味な、紛れやすい、写し身で、よかったはず。観測のためだけ、ならば、これは、あまりに、不合理。
なのに、半身は。この、最も、美しい、姿を、選んで、私を、送った。
今、その、まことの意味が――わかった。
半身は。感情を、忘れかけながらも――せめて。幾星霜、帰れなかった、故郷へ。おのれの、最も、美しい、写し身を、送りたかったのだ。野の獣のような、地味な姿ではなく。最も、晴れやかな、最も、美しい姿で――故郷の地を、踏ませたかった。
私は――半身の望郷の。
化身、だったのだ。
キサーラは、涙を、流しながら、静かに、微笑んだ。
不合理な、黄金の写し身。それは、感情を忘れかけた、孤独な知性の――最後に、残った、人間性の現れだった。望郷という、最も、人らしい思いの、かたちだった。
いつか、と、キサーラは、思った。
いつか、必ず。私は、半身のもとへ、帰ろう。この、地上で、得た、温もりを。人の優しさを。共にいることの、喜びを。すべて、抱えて。そして、あの、凍てついた深みで、ひとり、故郷を見つめ続けている、私の根のもとへ――その望郷を、ひとりで、抱えさせはしないと、告げに。
それが、いつになるのか。どうすれば、辿り着けるのか。彼女には、まだ、わからなかった。
けれど――その、帰るべき場所が。確かに、星の彼方に、あるのだと。
今、初めて、彼女は、知ったのであった。




