第三章 塩の果てへ 十三節
十三節
ナブーの光が、最後に、ドレクへと、向かったとき。
ドレクの心臓は、早鐘を、打っていた。
ほかの皆が、何を、授かったのかは、ろくに、頭に、入っていなかった。ドレクの胸には、ただ一つの、願いしか、なかった。それは、生まれてからずっと――いや、リナが、胸を病んでからの、長い、長い歳月、彼を、夜ごと、苛んできた、たった一つの、願い。
妹を。リナを。救いたい。
ドレクは、知も、力も、富も、要らなかった。失われた技も、おのれの出自も、どうでも、よかった。ただ、妹の、あの、苦しげな咳が、止まれば。あの、薄い肩が、もう一度、健やかに、なれば。それだけで、よかった。
ナブーの無数の光が、ドレクの、その、ただ一つの願いを、静かに、読み取った。
『渡り手よ』と、無数の声は、言った。『汝が、求めるは、ただ一つ。妹の病。それのみだな』
「ああ」と、ドレクは、震える声で、答えた。「あんたが、知の守護者だってんなら・・・教えてくれ。リナの病は・・・治るのか。どうすれば、治せるんだ。頼む。それだけで、いい」
ナブーの光が――しばし、沈黙した。
そして、その沈黙の質に、ドレクは、ぞくりと、した。それは、答えを、知らぬ者の沈黙では、なかった。答えを、知っていて――それを、告げることを、ためらう者の沈黙であった。
『・・・聞くがよい、渡り手』と、ナブーは、やがて、言った。『汝の妹の病。その、まことの、根を』
そして、知の守護者は、リナの病の本質を、開いた。
ドレクの裡に、真実が、流れ込んできた。
失われし世の滅び。世界が、焼かれたとき。地には――毒が、染み込んだ。生命を、蝕む、目に見えぬ、毒気が。気の遠くなるほどの歳月を経て、その多くは、薄れた。されど、ある土地には、今も、それが、残っている。そして、生まれつき、その毒に、弱い体を持つ者を――ゆっくりと、蝕む。
リナの胸の病は、それであった。
「毒・・・?」と、ドレクは、呻いた。「リナは、毒に・・・?」
『左様』と、ナブーは、言った。『されど――それは、治せる病だ』
ドレクの心臓が、跳ねた。
「治せる・・・治せるのか!? なら――」
『古の叡智の民は』と、ナブーの声が、ドレクを、遮った。『その毒を、癒す術を、持っていた。生まれつきの弱さも、補う術を。リナのような者を、健やかに、生かす術を――確かに、持っていた』
ドレクの目が、輝いた。希望が、胸に、満ちた。
けれど。
ナブーの次の言葉が――その希望を、凍りつかせた。
『されど、その術は――月へ、逃れた者たちが、持ち去った。月の上に、封じ、独り占めにし――地上の民には、決して、与えぬ』
ドレクは、言葉を、失った。
『なぜか』と、ナブーは、続けた。その無数の声に、初めて、冷たい、怒りに、似たものが、にじんだ。『月の者は、地上を、箱庭として、管理している。地上の民が、増えすぎぬよう。栄えすぎぬよう。おのれたちの、整えた、枠の内に、留まるよう。――病も、死も、その、管理の一部なのだ』
ドレクの頭の中が、真っ白に、なった。
『慈悲深い、庭師は』と、ナブーは、言った。『庭の木を、適度に、剪定する。枯れ枝を、払い、伸びすぎた枝を、切る。――月の者にとって、地上の病も、死も。そのための、鋏に、すぎぬ。汝の妹は』
ナブーの声が、静かに、告げた。
『救える。されど、月が、救う術を、独り占めにし、与えぬがゆえに――救われずに、いる。リナの病は、治せぬ病では、ない。月に、見捨てられた、病なのだ』
ドレクは。
しばらく、動けなかった。
息が、できなかった。
救える。妹は、救えるはずだった。生まれつきの、不治の病なんかじゃ、なかった。ただ――月が。あの、白銀の慈悲深い顔をした、神々が。救う術を、独り占めにして、地上の民には、与えないから。だから、リナは、苦しんでいる。だから、ドレクは、稼ぎの半分を、薬代に、つぎ込みながら、なお、妹を、救えずに、いた。
ドレクが、これまで、戦ってきた敵は――貧しさだった。無力だった。漠然とした、運命だった。
けれど、今。
彼の敵は――明確に、なった。
月だ。
妹を、蝕んでいるのは、毒なんかじゃ、ない。月だ。救えるはずの妹を、見殺しにしている、あの、神々だ。そして――地上中で、リナのように、救えるはずの病で、死んでいく、無数の者たち。彼らを、見捨てているのも、月だ。慈悲深い顔をして、鋏を、振るう、あの、月だ。
ドレクの胸の奥で。
何かが――鋼に、鍛えられた。
かつての、保身の卑しい、小悪は。妬みと、恐れに、追い立てられて、仲間を、陥れようとした、あの、惨めな男は。
もう、どこにも、いなかった。
代わりに、立っていたのは――明確な、怒りと、目的を持った、ひとりの、男であった。
「ナブー」と、ドレクは、顔を、上げた。その目は、もう、震えて、いなかった。「その、月が、封じた、救う術。それは――取り返せるのか」
『たやすくは、ない』と、ナブーは、言った。『その術は、月の最も、奥深くに、封じられている。されど――不可能では、ない。汝らが、旧き叡智の、まことを、追い続けるなら。いつか、その術にも、辿り着けよう』
「なら」と、ドレクは、言った。「俺は、取り返す」
その声に、迷いは、なかった。躊躇いも、なかった。
「妹を、救うために。そして――」ドレクは、仲間たちを、見回した。「リナみたいに。救えるのに、救われずに、死んでいく。地上中の奴らのために。俺は、月から、その術を、取り返す。何年、かかろうが。どこまで、行こうが」
ナブーの光が、ドレクの裡に、宿った。
それは、妹を、今すぐ、治す術では、なかった。けれど――旧き叡智の医の断片。リナの体の毒を、和らげ、その進行を、遅らせる、知識。愛爾芙のセレナの薬草と、合わせれば、リナは、今より、ずっと、楽に。ずっと、長く、生きられる。完治には、まだ、遠い。けれど――時を、稼げる。妹が、本当の救いに、辿り着くまでの、時を。
ドレクは、その、灯を、胸に、抱いた。希望と、目的の灯を。
そして、彼は――かつて、東の遺跡の封印を破った、あの、月の白銀の使徒たちのことを。とりわけ、あの、青き髪の告死天使のことを、思った。
アズライール。旧き叡智を、封じ、独り占めにする――月の剣。
あの男こそ――リナの病の元凶の象徴だった。旧き叡智を、地上の民から、奪い続ける者。リナのような者を、見殺しにし続ける、月の手。
ドレクの握りしめた、拳が、震えた。今度は、恐怖でも、怯えでも、なかった。
「次に、あいつに、会ったら」と、ドレクは、低く、呟いた。「俺は――もう、逃げねえ」
保身のために、震えていた、銅縁の渡り手は。
妹のために、月に、刃を向ける、ひとりの、戦士に、なった。
ナブーの光が、ドレクから、離れていった。
これにて――旅の友、五人への、恩寵は、すべて、終わった。
知の守護者の無数の光が、ゆっくりと、向き直った。
最後の、ただひとりへ。星の彼方より来たる、同族へ。黄金の――キサーラへと。




