第三章 塩の果てへ 十二節
十二節
ナブーの光が、自分のほうへ、向かってくるのを見て、ミラは、急に、心細く、なった。
みんな、すごいものを、授かった。セレナは、精靈の、いちばん奥を読む、目を。ガルドは、失われた、本物の技を。ロウは、おのれの、根を、知った。みんな、何か、大切な、深いものを、求めていて、それを、授かった。
でも、わたしは。
ミラは、自分の両手を、見た。何も、ない。わたしには、求めるものなんて、何も、ない。精靈の声も、聞こえないし、技も、持っていない。ただの、隊商の娘。みんなみたいに、深い、願いなんて、ないのだ。
知の守護者ナブーの無数の光が、ミラの前で、静かに、揺らいだ。
『娘よ』と、無数の声が、響いた。『汝は、何を、求める』
ミラは、答えようとして――言葉に、詰まった。
何を、求めるか。問われて、ミラは、必死に、考えた。叡智? 力? 富? ――どれも、ぴんと、こなかった。欲しい、と、思えなかった。
代わりに、ミラの胸に、浮かんできたのは。
みんなの、顔だった。
白樹の森で、待っている、リナの笑顔。塩の果ての、夜、風よけに、なってくれた、キサーラの背中。憎まれ口を、叩き合う、ロウと、ガルド。精靈に、祈る、セレナの横顔。妹のために、頭を下げて回った、ドレクの不器用な、優しさ。
みんなが――無事でいてほしい。
でも、それは、「求めるもの」と、言えるのだろうか。それは、欲しいもの、ではなくて。ただ、願い。ただ、祈り。
ミラは、正直に、答えるしか、なかった。
「ごめんなさい」と、ミラは、言った。「わたし・・・欲しいものが、よく、わからないんです。叡智も、力も、なんだか、自分のものには、思えなくて。わたしが、思うのは・・・ただ、みんなが、無事だったら、いいなって。それだけ、なんです。こんなの、求めるもの、じゃないですよね」
ナブーの光が――しばらく、沈黙した。
その沈黙は、これまでの、誰のときとも、違う、沈黙であった。ミラには、わからなかったが――それは、知の守護者が、久しく、出会わなかったものを、前にした、静かな、感嘆の沈黙であった。
『・・・娘よ』と、やがて、ナブーは、言った。その無数の声に、これまでにない、深い、やわらかさが、宿っていた。『気の遠くなるほどの歳月、この館を、訪れた者は、皆、何かを、求めた。叡智を。力を。失われた、秘密を。――おのれのために、より多くを、欲した』
光が、ミラを、優しく、包んだ。
『されど、汝は――おのれのためには、何も、求めぬ。ただ、他者の無事を、願う。それは――この館を訪れた、数えきれぬ求道者の中で、最も、稀有な、心だ』
「でも」と、ミラは、戸惑った。「わたしは、何も、知らないし、何も、できないし」
『汝に、与うべき、叡智は、ない』と、ナブーは、言った。『なぜなら――汝は、すでに、満ちているからだ』
ミラには、その言葉の意味が、すぐには、わからなかった。
『聞くがよい、娘よ』と、ナブーは、続けた。『叡智は、灯であると、同時に、毒でもある。それを得た者は――時に、知に、呑まれる。人を、人として、見られなくなる。すべてを、知の対象としてのみ、見るように、なる。汝の、はらからたちも――精靈の真実を知った愛爾芙も、滅びの技を知った職人も、星の彼方の、あの黄金の女ですら――その、危うさを、抱えている』
ミラは、はっと、した。
『そのとき』と、ナブーの声は、言った。『知に、呑まれかけた者を、人の世へと、繋ぎ止める――錨が、要る。世界を、まっさらな目で、ただ「不思議だ」と感じ、人を、ただ「大切だ」と思える――汝のような、心が』
光が、ひときわ、優しく、ミラを、照らした。
『汝は、与えられる者では、ない。娘よ。汝は――すでに、与えている者だ』
ミラの目が、見開かれた。
『考えても、みるがよい』と、ナブーは、言った。その光が、ふと、傍らに立つ、黄金の女のほうへ、向けられた。『あの、星の彼方の知性の枝が。気の遠くなるほどの孤独を経て、地上で、初めて、人の温もりを、知り得たのは――なぜか』
ミラは、キサーラを、見た。
『汝が』と、ナブーは、告げた。『塩ノ原で、倒れていたあれを、何の理屈もなく、ただ「大丈夫」と、その手を、取ったからだ。あれが、何者かを、問う前に。人ならぬ、その身を、恐れる前に。汝は、ただ、あれを、受け入れた。――汝は、知らぬうちに、あの、孤独な知性に。この館の、いかなる叡智よりも、大きな、恩寵を、与えていたのだ』
ミラの胸が――熱く、なった。
あの、塩ノ原の朝。塩の中に、倒れていた、黄金の女。あのとき、ミラは、ただ、母の嘆く「悪い癖」のままに、駆け寄って、手を、取った。何も、考えずに。ただ、放っておけ、なかったから。
それが――恩寵だった、なんて。
「わたしは」と、ミラは、声を、震わせた。「ただ・・・放っておけなかった、だけ、です」
『それが』と、ナブーは、言った。『最も、稀有なことなのだ』
ミラは、キサーラを、見た。
黄金の女は――いつもの、やわらいだ目で、ミラを、見ていた。けれど、その金の瞳に、今、にじんでいるものを、ミラは、初めて、見た。
感謝だった。言葉にならない、深い、深い、感謝。
星の彼方から、たったひとり、観るためだけに、送られてきた知性。渇きも、疲れも、孤独すら、感じぬはずだった、その存在が――地上で、人の温度を、知った。優しさを、知った。共に、いることを、知った。
その、すべての、始まりが。
塩ノ原の朝のミラの差し出した、一本の手から、だったのだ。
ナブーの光が、ミラから、離れていった。何も、授けずに。けれど、ミラの胸には、何を授かるよりも、温かいものが、満ちていた。
わたしは、何も、持っていない。
でも――わたしは、きっと、ここに、いていいんだ。みんなと、一緒に。それだけで、何かを、与えられているんだ。
ミラは、そっと、キサーラの手を、握った。塩ノ原の、あの朝と、同じように。
キサーラも、その手を、握り返した。
ナブーの光が――最後の求道者へと、向かっていった。
妹の病という、ただ一つの、切実な願いを、抱えた――渡り手、ドレクへと。




