第三章 塩の果てへ 十一節
十一節
ナブーの光が、ロウに、触れたとき。
ロウは、思わず、身構えた。
獣の本能であった。得体の知れぬものが、身に触れれば、まず、警戒する。それが、ロウの生き方であった。狼獣人として、塩ノ原を、渡り歩き、群れを持たず、ただ一匹で、危地を、嗅ぎ分けて、生きてきた、その、身に染みついた、構え。
けれど、ナブーの光は――敵意を、持っていなかった。
それは、ただ、静かに、ロウの裡の最も、深いところを――ロウ自身ですら、覗いたことのない、その、奥底を、照らした。
そして、ナブーは、見抜いた。
ロウが、口にすることすら、なかった、ただ一つの、問いを。
『おのれが、何者かを』と、無数の声は、言った。『汝は、知りたいのだな。なぜ、おのれが、こうなのか。なぜ、群れに馴染めず、ただ一匹で、生きてきたのか。――その、根を』
ロウの喉が、鳴った。
図星で、あった。ロウは、生涯、それを、誰にも、言ったことが、なかった。言葉にすることすら、できなかった。けれど――ずっと、心の、いちばん奥で、疼いていた。なぜ、俺は、こうなんだ、と。なぜ、狼獣人の、群れの中にいても、息苦しかったのか。なぜ、人の世にいても、馴染めなかったのか。なぜ、俺は、どこにも、属せなかったのか。
『ならば、聞くがよい』と、ナブーは、言った。『汝ら、狼獣人の、まことの、根を』
そして、知の守護者は、ロウの出自を、開いた。
ロウの裡に、太古の記憶が、流れ込んできた。
失われし世の終わり。大いなる、滅びの、とき。
世界が、焼かれ、空が、毒に、染まり、生命が、次々と、絶えていった、あの、絶望の時代。そのとき――生き延びようとした、人々がいた。もはや、人のままでは、この、荒れ果てた世を、生き抜けぬと、悟った者たちが。
彼らは、おのれを――獣の強靭さと、融合させた。
古の叡智の民の技をもって。獣の研ぎ澄まされた感覚を。獣の頑健な肉体を。獣の過酷な世を生き抜く、本能を。人の身に、宿したのだ。生き延びるために。
それが――狼獣人の、始まり。
ロウは、息を、呑んだ。
『汝らは』と、ナブーは、言った。『人でも、ある。獣でも、ある。そのどちらでも、あり――そのどちらでも、ない。境に、立つ者。それが、狼獣人だ』
境に、立つ者。
その言葉が、ロウの胸を、貫いた。
だから、か。
だから、俺は――どこにも、属せ、なかったのか。狼獣人の群れにいても、俺の中の「人」が、息苦しかった。人の世にいても、俺の中の「獣」が、馴染めなかった。俺は、どちらでもあり、どちらでもない。だから、どちらの群れにも、収まりきらなかった。一匹でいるしか、なかったのだ。
ロウの孤独の正体が――ここに、あった。
そして、もう、ひとつ。
「・・・だから」と、ロウは、かすれた声で、呟いた。「あの女が、わかったのか」
『左様』と、ナブーは、頷くように、輝いた。『あの、黄金の女。星の彼方の知性の枝。人でもなく、機でもない、境の存在。汝が、本能で、あれを「敵ではない」と、嗅ぎ分けられたのは――汝もまた、境に立つ者だから。境の者には、境の者が、わかる。汝の引き裂かれるような、あの、二つの声――「危険だ」と「敵ではない」――あれは、汝の中の獣と、人とが、別々に、語っていたのだ』
ロウは、長いあいだ、黙っていた。
胸の中で、何かが、収まるべきところに、収まっていく音が、した。生涯、わからなかった、おのれの正体。生涯、抱えてきた、孤独の根。それが、今、すべて、腑に、落ちた。
けれど。
その、収まりの、傍らに――ひとつの、苦い、ものも、あった。
『汝らもまた』と、ナブーの声が、続いた。『古の叡智の民の手で、形作られたもの。狼獣人だけでは、ない。森に住む者も、山に住む者も――地上の多くの種族が、かの民の技と、長い歳月によって、今の姿に、なった。汝らは、自然に、生まれたのでは、ない。誰かの、意図が――その、根に、ある』
ロウは、唸った。
俺たちは、造られた。誰かの、技で。誰かの、意図で。自由に、生きてきたつもりが――その根は、誰かの、掌の上だったのか。月の箱庭の駒だったのか。
それは、重い、真実であった。狼獣人としての、誇りが、揺らぎかける、ような。
けれど。
ロウは、ふん、と、鼻を、鳴らした。
「・・・だから、何だ」
彼は、立ち上がった。その目には、もう、迷いは、なかった。
「造られようが、何だろうが。境の者だろうが、何だろうが。――俺は、俺だ」と、ロウは、低く、しかし、揺るぎなく、言った。「根が、誰かの意図だろうと、知ったこっちゃ、ねえ。今、俺が、誰を、守りたいか。それだけが、俺の、もんだ」
それは――黄金の女が、おのれの根を知って、なお「私は私」と、受け止めたのと、同じ、答えであった。境の者は、おのれの、不確かな根を、嘆くのではなく、ただ、今、ここに在る、おのれを、引き受ける。
『よき、答えだ』と、ナブーは、言った。『おのれの根を、嘆く者は、多い。されど、それを、引き受ける者は、少ない』
ナブーの光が、ロウの裡に、宿った。
それは、新たな、力では、なかった。ロウの、もとから持っていた、境の感覚――人と獣の両の目で、世界を、見る、その力の意味を、照らす、灯であった。これからロウは、おのれの、引き裂かれた二つの声を、呪うのではなく、誇りとして、使えるだろう。獣の本能と、人の知。その、両方を。
ロウは、灰縁の卓の仲間たちを、見回した。
人の娘、ミラ。愛爾芙のセレナ。杜瓦夫のガルド。町外れの渡り手、ドレク。そして、星の彼方の黄金の女。
ばらばらの、寄せ集め。どこの群れにも、収まりきらぬ、はみ出し者たち。境の者たち。
そうか、と、ロウは、思った。
俺が、生涯、馴染めなかったのは――俺が、境の者だったから。ならば、俺の居場所は。きちんとした、ひとつの群れの中になど、最初から、なかったのだ。俺の居場所は――こういう、境の者たちが、寄り集まった、この、ちぐはぐな、卓の中に、しか。
生涯、一匹だった狼が。
ようやく、おのれの、群れを、見つけた。それも、おのれの根を、知って、初めて。
ロウは、もう一度、ふん、と、鼻を鳴らした。今度は、満更でもない、響きで。
ナブーの光が、ロウから、離れ――次の求道者へと、向かった。
知も、力も、求めぬ、ただ一人の――小さな、人の娘へと。




