第三章 塩の果てへ 十節
十節
ナブーの光が、ガルドに、触れたとき。
ガルドは、思わず、両の拳を、握りしめた。
杜瓦夫の、職人として。ガルドが、生涯、骨の髄から、渇望してきたもの。それは、ただ、ひとつ。本物の技。失われた、まことの細工。山火の鍛冶街で、誰よりも、鉄を見、金を見、石を見てきた、その目をもってしても、ついに、見極められなかった――旧き叡智の失われた技の、その正体。
それが、今。
光となって、彼の裡へ、流れ込んできた。
ガルドは――声を、失った。
わかる。わかってしまう。額の、あの琥珀が。言葉を納めた、あの板が。東の遺跡の朽ちぬ素材が。どう、造られたものなのか。何で、できているのか。どういう、理で、光を宿し、言葉を蓄え、気の遠くなるほどの歳月、朽ちずにいるのか。
その、すべてが――手に取るように、わかった。
鉄を、原子の一粒まで、見通す目。物質を、意のままに、組み替える、理。光を、力を、知を、ひとつの、小さな石の中に、畳み込む、技。それは、ガルドの知る、どんな鍛冶の技とも、次元の違うものであった。けれど――職人の魂は、それを、確かに、理解した。受け止めた。
歓喜が、太い体の奥底から、突き上げてきた。
これだ。これを、知りたかった。生まれてから、ずっと。本物の技。世界を、形作る、まことの、理。職人として、生きてきて――よかった。この一瞬の、ためだけにでも、生きてきて、よかった。
ガルドの、ごつい目尻に、涙が、にじんだ。職人の歓喜の涙であった。
彼は、震える手で――その場の塩の結晶を、ひとつ、つまんだ。そして、流れ込んできた、技の、ほんの、入口を、試してみた。
すると。
掌の中の、ただの、塩の結晶が――淡く、光を、宿した。ガルドが、念じた通りの、形に、組み変わった。ガルドの板の、あの、なめらかな素材の、ごく小さな、かけらが、彼の掌の上に、生まれていた。
ガルドは――笑った。腹の底から。これほど、嬉しかったことは、生涯、なかった。失われた技が、今、自分の、この、無骨な手に、宿っている。
けれど。
その、歓喜の、頂で。
ガルドは、ふと、気づいた。
この技を――辿って、いけば。
掌の塩を、組み変える、この技を。もっと、もっと、極めて、いけば。その、先には――何が、あるのか。
ガルドの職人の勘が――鉱脈の、ずっと奥に潜む、毒の気配を、嗅ぎ分けるように――その先を、見通してしまった。
物質を、意のままに、組み変える技。それを、極めれば。岩を、砕ける。山を、崩せる。海を・・・干せる。そして、星すら――焼ける。
ガルドの背筋が、凍った。
これは。職人の夢の技であると、同時に。
滅びの、技でも、あった。
気の遠くなるほど昔。旧き叡智の民は、まさに、この技を、極めた。星を従え、海を従え――そして、おのれの手で、世界を、焼いた。ガルドが今、その入口に、立っている、この技。それを、極めた果てに、あったのが――あの、滅びだったのだ。
ガルドは、掌の中の小さな、光る素材を、見つめた。
美しかった。完璧な、細工。職人の夢。
けれど――この、美しい技の行き着く先に。世界を、焼く、業火が、待っている。
ガルドは、はじめて、理解した。なぜ、月が、この知を、封じたのかを。なぜ、あの、告死天使が、これを「滅びの種」と、呼んだのかを。憎しみからでは、なかった。恐れから――いや、ある意味では、正しい、恐れから、だったのだ。
ガルドの歓喜は。
消えは、しなかった。けれど、その歓喜の傍らに――重い、重い、戦慄が、並んで、立った。
『気づいたか、職人よ』と、ナブーの無数の声が、静かに、言った。『技に、善悪は、ない。されど、技は、それを、振るう者の器を、容赦なく、映し出す。旧き叡智の民は――技を、得た。されど、その技に、見合うだけの、慎みを、得る前に。滅びた』
「・・・俺は」と、ガルドは、かすれた声で、言った。「この技を、どう、すりゃ、いい」
『それは、我が、答えることでは、ない』と、ナブーは、言った。『汝が、職人として、生涯をかけて、答えるべき、問いだ』
ガルドは、長い、長いあいだ、掌の中の光る素材を、見つめていた。
そして、ゆっくりと、それを、握りしめた。
「・・・わかった」と、彼は、低く、言った。「俺は、職人だ。鍛冶屋だ。俺の技は、人の暮らしを、楽にするためのもんだ。荷車を、直し、刃を、研ぎ、鍋を、繕う。そのための、技だ」
彼は、顔を、上げた。その目には、涙の痕と――職人の揺るぎない、矜持が、あった。
「この、失われた技も――同じだ。俺は、これを、人の暮らしを、助けるためにだけ、使う。星を焼くためでも、山を崩すためでも、ねえ。灯を、ともすためだ。剣を、鍛えるためじゃ、ねえ」
ガルドは、決めた。本物の技を、得た職人として。その力を、どこまで、使うかを。極めれば、滅びに至る、その技を――あえて、極めず。ささやかな、暮らしの、灯として、だけ、用いる。
それは、職人として、最も、難しい、抑制であった。本物を、知った者が、その本物を、あえて、振るわぬこと。手の届く高みに、あえて、登らぬこと。けれど、ガルドは、それを、選んだ。
旧き叡智の民が、得られなかった、慎みを。
『よき、答えだ』と、ナブーの光が、静かに、頷いた。『その慎みこそ――旧き叡智の民が、最後まで、得られなかったもの。汝のような職人が、もし、あの時代に、一人でも、いたならば』
ナブーの声は、そこで、ふと、言葉を、濁した。何か――言いかけて、飲み込んだような、間であった。
ガルドは、それに、気づいたが、問わなかった。職人は、問わぬことの、作法も、知っている。
ガルドは、掌の中の小さな、光る素材を――懐に、そっと、しまった。それは、彼の生涯の宝であり、同時に、生涯、抑制し続けねばならぬ、重荷でも、あった。
彼は、隣のロウを、見て、ふん、と、いつもの、鼻を、鳴らした。
「次は、お前の番だぞ、毛玉」
「うるせえ、石頭」と、ロウが、唸った。
けれど、その、いつもの、憎まれ口の、その奥で――ガルドの目は、もう、以前のガルドの目では、なかった。本物の技と、その恐ろしさを、知った者の深く、静かな、目に、なっていた。
ナブーの光が、ガルドから、離れ――今度は、その、狼獣人へと、向かっていった。
おのれの、出自を、知らぬ、狼獣人へと。




