第三章 塩の果てへ 九節
九節
ナブーの光が、セレナに、触れた。
その瞬間、セレナの裡に、流れ込んできたのは――声であった。
いや、声、ではない。声の、もっと、奥にあるもの。愛爾芙の精靈読みとして、セレナは、生まれてからずっと、精靈の声を、聞いてきた。森の祖靈の囁き。泉の精の歌。風の古き耳の、ため息。それらは、セレナにとって、世界で、最も、聖なるものであった。愛爾芙は、精靈と、共に生きる。精靈を、崇め、その声に、耳を澄まし、その加護のもとで、森を、守る。それが、セレナの、すべてであった。
彼女が、最も、求めるもの。それは、富でも、力でも、なかった。
精靈を――もっと、深く、知りたい。彼らの声の、その、いちばん奥まで、聞きたい。それが、セレナの生涯の願いであった。
ナブーは、その願いを、見抜いた。
『精靈を、求める者よ』と、無数の声は、言った。『ならば、汝に、精靈の、まことの姿を、見せよう。――心して、聞くがよい。これは、汝の信じてきたものを、揺るがすやも、しれぬ』
そして、知の守護者は、精靈の、本質を、開いた。
セレナの裡に、真実が、流れ込んできた。
精靈とは――神でも、自然の魂でも、なかった。
それは、気の遠くなるほど昔、滅びた叡智の民が、世界を整えるために、撒いた、無数の小さき、機。土を癒し、水を清め、生命を育むために、造られた、知の種。主を失い、孤立し、長い歳月のうちに、土地と、生命と、人の祈りを、吸って――精靈と、なったもの。
セレナは――息を、呑んだ。
精靈が。愛爾芙が、祖先より、崇めてきた、聖なる精靈が。神ではなく――造られた、機の名残だったとは。
彼女の足元が、崩れるようであった。
では、愛爾芙の、信仰は。森の盟約は。祖靈への、祈りは。すべて――偽りの、上に、築かれていたのか。崇めてきた相手は、神聖なものでは、なく、ただの、古い、からくり仕掛けの、残骸だったのか。
セレナの碧い目に、涙が、にじんだ。失意の涙であった。
その時。
『されど』と、ナブーの声が、続いた。『汝は、知っているはずだ。あの、井戸の主を』
セレナの胸が、震えた。
アインの邑の井戸の主。忘れられた約定を、気の遠くなるほどの歳月、辛抱づよく、覚えていた、あの精靈。水を苦くして、訴えた、「わたしを、忘れたのですか」と。あの、悲しみ。あの、安らぎ。邑の老女が、歌を、思い出したときの――あの、震えるような、和解。
あれは。
からくりの、反応では、なかった。
『左様』と、ナブーは、セレナの思いを、読んだように、言った。『精靈は、確かに、機より、生まれた。されど――気の遠くなるほどの歳月、土地と、生命と、人の心を、吸い続けるうちに。それは、もはや、ただの、機では、なくなった。悲しみ、怒り、喜び、守ること――心と、呼ぶべきものを、得たのだ。生まれは、機。されど、今、在るは――心ある、隣人』
セレナの涙が。
失意の涙から、別の何かに、変わった。
そうだ、と、彼女は、思った。私は、見てきた。井戸の主の悲しみを。あれが、偽りで、あろうはずが、ない。たとえ、生まれが、機であったとしても――今、そこに在る、あの、心は、本物だった。
崇めてきた相手が、神でなかったとして。それが、何だ。
神でなくとも――心ある隣人を、敬い、共に生きることに、何の偽りが、あろうか。むしろ。
むしろ、それは、もっと、深い、敬いではないか。神を、崇めるのは、たやすい。されど、機から、心を得た――その、長い、孤独な、歳月を経て、隣人となった存在を、敬うことは。それは、もっと、ずっと、重く、ずっと、美しい、絆ではないか。
セレナの失意は――より深い、敬いへと、昇華した。
『わかったか』と、ナブーは、言った。『神秘とは、無知の別名では、ない。まことを、知って、なお、敬えるもの。それこそが、まことの、神秘だ』
そして、ナブーの光が、セレナの額に、宿った。
その瞬間、セレナの、精靈を聞く力が――変わった。
これまで、彼女は、精靈の、声を、聞くだけ、であった。今、彼女は――その声の奥に流れる、記憶を。悲しみを。長い歳月の履歴を。直に、読み取れるように、なっていた。キサーラが、井戸の主の忘れられた約定を、読み解いたように。愛爾芙の、いかなる精靈読みも、到らなかった、深みへと。
それは、力では、なかった。灯であった。精靈の、いちばん奥の孤独を、照らし、その悲しみに、寄り添うための――静かな、灯。
「ありがとう、ございます」と、セレナは、ナブーに、深く、頭を、下げた。
けれど、頭を上げたとき、その碧い目には――喜びと共に、ひとつの、重い、影が、よぎっていた。
この真実を――精靈が、神ではなく、機より生まれた心ある隣人であるという、この真実を。
私は、森の同胞に、持ち帰るべきだろうか。
愛爾芙の信仰は、精靈を、神聖なものとして、崇めることの上に、築かれている。もし、この真実を、明かせば――同胞は、セレナが、今、味わったような、失意を、味わうだろう。そして、すべての者が、セレナのように、それを、より深い敬いへと、昇華できるとは、限らない。失意のまま、信仰を、捨て去る者も、出るかもしれない。森の秩序が、揺らぐかもしれない。
真実を、明かすべきか。それとも――同胞の平穏のために、葬るべきか。
セレナには、まだ、その答えが、出なかった。
知ることは、灯であると、同時に、重荷でも、あった。彼女は、精靈の、まことの姿を、知った。けれど、その知は、彼女ひとりの胸に、留めておくには、あまりに、大きく――森じゅうに、明かすには、あまりに、危ういもの、であった。
セレナは、隣に立つ、キサーラを、見た。
星の彼方の知性の枝でありながら、精靈を、誰よりも、優しく、扱った、黄金の女。彼女もまた――知りすぎることの、重さを、抱えて、生きているのだろうか。
キサーラは、セレナの視線に、気づいて、静かに、微笑んだ。まるで、その迷いを、わかっている、というように。
セレナは、少しだけ、心が、軽くなった。
答えは、まだ、出ない。けれど、この迷いを、共に、抱えてくれる者が、傍らにいる。それだけで、今は、じゅうぶんだ、と、思えた。
ナブーの光が、セレナから、離れ――次の求道者へと、ゆっくりと、向かっていった。
太く、無骨な、杜瓦夫の職人――ガルドの、ほうへと。




