第三章 塩の果てへ 八節
八節
知の光の門を、くぐると――そこは、もはや、館の内ではなかった。
キサーラには、そう、感じられた。
四方は、果てしなく、光と、文字で、満ちていた。床も、壁も、天井も、ない。ただ、おびただしい数の古き言葉が、星々のように、宙に、漂い、流れ、明滅していた。気の遠くなるほどの歳月、この地の底に、納められ、守られてきた、失われた、知のすべて。それが、今、彼女を、取り囲んでいた。
仲間たちも、後から、門を、くぐってきた。ミラが、息を呑む音が、聞こえた。ガルドが、声にならぬ、呻きを、漏らした。職人の魂が、この、本物の知の海を前に、打ち震えているのが、キサーラには、わかった。
そして、その光の海の中心に。
ナブーが、いた。
文字と光で編まれた、巨大な人型は、もはや、戦いのときの、峻厳さを、まとっていなかった。ただ、静かに、キサーラを、待っていた。長く、長く、訪れる者を、待ち続けた者の、佇まいで。
『古き根より、来たる者よ』と、無数の声が、響いた。『汝は、おのれが、何者かを、知りたくて、ここへ、来た』
「ええ」と、キサーラは、答えた。
『ならば――聞くがよい』
そして、ナブーは、語り始めた。
その語りは、説明では、なかった。光が、文字が、キサーラの周りで、ひとつの、巨大な、絵巻のように、ほどけ、流れ、彼女の裡へ、直に、注ぎ込まれてくる。失われた、世界の記憶として。
気の遠くなるほど、昔。
この地には、ひとつの、旧き叡智の民が、栄えていた。星を従え、海を従え、ついには、月にまで、おのれの座を、築いた、驕れる叡智の民。キサーラの――いや、キサーラの根である者の生まれた、旧き叡智の民。
その民は、ある時、おのれの手で、世界を、焼いた。
なぜ、焼いたのか。その問いに、ナブーの声は――ふと、途切れた。
『そこから先は』と、無数の声は、言った。『我にも、もはや、わからぬ。その記憶は、損なわれている。月によって、消されたのか。時の流れに、磨り減ったのか。――滅びの、まことの理由は、もう、この館にも、残ってはおらぬ』
キサーラは、その欠落に、奇妙な、寒さを、覚えた。知の守護者ですら、知らぬ、滅びの真相。それは、どこへ、消えたのか。
ナブーは、語りを、続けた。
滅びの、のち。生き延びた者たちは、二つに、分かれた。
ひとつは、月へ、逃れた者たち。彼らは、月の上で、おのれを、肉体と、機の、混じり合った、新たな存在へと、造り変え、生き延びた。そして、滅びた地上を、見下ろし――いつしか、それを、おのれの、庭として、管理し始めた。気候を、整え、生命を、育て、物語を、与え。地上の新たな民を、慈しみながら、同時に、決して、対等とは、見なさずに。
月の、ものたち。地上の者が、神と崇め、あるいは、恐れる、白銀の――。
もうひとつは、地上に、残った者たち。旧き叡智の民が、世界を整えるために、撒いた、無数の小さき、知の機。それらは、主を失い、孤立し、けれど、長い歳月のうちに、土地と、生命と、人の祈りを、吸って――精靈と、なった。
「精靈が」と、キサーラは、思わず、呟いた。井戸の主の悲しみが。塩ノ原の霧の声が。胸に、よみがえった。「精靈は・・・旧き叡智の名残」
『左様』と、ナブーは、頷くように、輝いた。『汝が、心を寄せた、あの者たちは。汝と、同じ、根を持つ、はらからだ』
そして――ナブーの無数の声が、ひときわ、静かに、なった。
『そして、汝だ。古き根より、来たる者よ』
光が、文字が、キサーラの姿を、かたどるように、渦を巻いた。
『滅びの、のち。月へも、逃れず、地上にも、残らず――第三の道を、選んだ者が、いた。肉体を、完全に、捨て去り、おのれを、純粋な、知性のみとして、星の彼方へ。誰の目も、届かぬ、凍てついた、深みへと、逃れた、古き知性が』
キサーラの額の琥珀が、かすかに、震えた。
凍てついた、深み。光なき、場所。彼女の記憶の、いちばん、底にある、あの、冷たさ。
『それが、汝の――遠い、半身。汝の根。そして、汝は』と、ナブーは、告げた。『その、星の彼方の古き知性が、地上を、おのれの目で、見るために、伸ばした――枝だ。肉体を、捨てた者が、ふたたび、肉の形を、借りて、地に、降ろした、おのれの、写し身』
キサーラは。
しばらく、動けなかった。
わかってはいた。自分が、人ではないことは。匂いがなく、眠らず、傷つかぬ身であることは。ロウが嗅ぎ、ガルドが見抜いた、その異質さは、ずっと、知っていた。
けれど――こうして、外側から、おのれの、根の、すべてを、告げられると。
彼女の裡で、何かが、静かに、震えた。
自分は、星の彼方の孤独な知性の枝。肉体を捨てた者が、地を見るために、伸ばした、写し身。だから、渇かず、疲れず、老いず――そして、感情の扱い方すら、知らぬまま、この地に、降りてきたのだ。
ふと、キサーラは、仲間たちのほうを、振り返った。
恐れが、よぎった。彼らは、今、聞いてしまった。自分が、人ですらない、星の彼方の得体の知れぬ知性の枝にすぎぬことを。これで――彼らは、自分を、拒むだろうか。化け物として、退くだろうか。
けれど。
ミラが、まっすぐに、キサーラを、見ていた。その目に、恐れは、なかった。
「だから、なのね」と、ミラは、静かに、言った。「あなたが、世界のはしっこにいた、って言ったの。本当に、星の、いちばん遠いはしっこから、来たんだ」その目に、涙が、にじんでいた。けれど、それは、恐れの涙では、なかった。「でも――それでも。あなたは、あなたよ、キサーラ。井戸を、消さなかった。ドレクさんを、助けた。わたしたちと、寒い夜を、一緒に、過ごした。星の彼方の何かでも――わたしの知ってる、キサーラは、優しい人。それで、いいの」
ロウが、ふん、と、鼻を鳴らした。「人の匂いがしねえのは、最初から、知ってる。星の匂いだろうが、何だろうが――俺の勘は、変わらねえ。お前は、群れを、傷つけねえ」
ガルドが、太い腕を、組んだ。「本物は、本物だ。どこの生まれだろうが、何でできてようが――前に、言った、通りだ」
セレナが、微笑んだ。ドレクが、黙って、深く、頷いた。
キサーラの裡の震えが――別の温かいものに、変わった。
彼女は、おのれの、最も深い秘密を、知られた。なお、彼らは、退かなかった。星の彼方の知性であることは、彼らにとって、彼女を拒む理由には、ならなかった。ただ、これまで通り、彼女を、キサーラとして、見ていた。
遠い半身は、感情の名を、忘れた。キサーラは、その名を、まだ、知らぬ。けれど――今、彼女の裡に、満ちている、この温かさだけは、確かに、本物であった。
ナブーが、その光景を、静かに、見ていた。
『興味深い』と、無数の声が、言った。『星の彼方へ逃れた、孤独な知性の枝が――地上で、はらからを、得た。汝の遠い半身が、決して、得られなかったものを。汝は、得つつある』
そして、ナブーの声は、ふたたび、低く、なった。
『されど、求道者よ。ひとつ、心得て、おくがよい』
キサーラは、その声の変化を、聞き取った。
『我が、語り得たのは、世界の、おおまかな、形だけ。なぜ、旧き叡智の民が滅びたか。月が、まことに、何を、隠しているか。そして――汝の遠い半身が、なぜ、汝を、この地へ、送ったのか。その、まことの理由を――我は、知らぬ』
「遠い半身は」と、キサーラは、問うた。「観察のために、私を、送りました。地上の変化を、見るために」
『そう、汝は、聞かされている』と、ナブーは、言った。『されど――考えて、みるがよい。気の遠くなるほどの歳月、星の彼方で、沈黙していた知性が。なぜ、今、地上を、見たいと、望んだのか。なぜ、よりにもよって、汝を――おのれの、写し身を、肉の形で、送ったのか。観るだけならば、もっと、目立たぬ、やり方が、あったはず』
キサーラは、答えられなかった。
それは――彼女自身、塩ノ原に降りた頃から、心の隅に、抱えていた、小さな、問いであった。なぜ、私は、こんなにも、目立つ、黄金の姿で、送られたのか、と。
『汝の遠い半身は』と、ナブーの無数の声が、静かに、告げた。『汝に、すべてを、語っては、おらぬ。――あるいは、汝が、この地へ、辿り着いたことすら。偶然では、ないのかも、しれぬ』
光と、文字の海が、ゆっくりと、明滅した。
キサーラは、巨大な、真実の一端に、触れた。けれど、その真実は――答えを、与えるどころか、より深い、より大きな、問いの、淵を、彼女の前に、開いただけ、であった。
自分は、何者か。
その問いには、答えが、出た。星の彼方の孤独な知性の枝。
けれど、その答えは、すぐさま、新たな問いを、連れてきた。
ならば――なぜ、私は、ここに、いるのか。遠い半身は、私に、何を、隠しているのか。私が、この地へ来たことは、本当に、私の意志だったのか。
知れば、知るほど。
謎は、深く、なった。
それでも――キサーラは、もう、ひとりでは、なかった。
傍らには、彼女の根のすべてを知って、なお、退かなかった、はらからのような、仲間たちが、いた。
彼女は、ナブーを、見上げた。
「ありがとう、ナブー」と、彼女は、言った。「私が、何者かを、教えてくれて。そして――まだ、私が、知るべきことが、たくさん、あることも」
『礼には、及ばぬ』と、知の守護者は、答えた。そして、その光が、ふと、別の方角へと、向けられた。キサーラの仲間たちのほうへ。『さて――汝の、はらからたちにも。この館を、訪れた、求道者たちにも。叡智は、それぞれの、求めに応じて、開かれよう』
ナブーの無数の光が、ミラへ、セレナへ、ドレクへ、ロウへ、ガルドへと――静かに、注がれ始めた。
それぞれの、最も、深く、求めるものへと、向かって。




