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第三章 塩の果てへ 七節

挿絵(By みてみん)


七節


 白銀の光が、放たれた瞬間。


 ミラには、何が起きたのか、目で追うことができなかった。


 告死天使アズライールの神器から、放たれた青白い力。それは、ただの光ではなかった。塩の大地に、わずかに残っていた、土地の気配――旧海盆の底の最後の精靈(アーコン)たちが、その力に引きずり出され、命じられ、束ねられて、ひとつの巨大な刃と化していた。月の権能。それは精靈(アーコン)を、祈るのでも解くのでもなく、ただ命じ従える・・・月の支配の力。


 その刃が、キサーラめがけて襲いかかった。


 キサーラの額の琥珀が強く灯った。


 彼女は、退かなかった。仲間を、背に庇いながら、その白銀の刃に、片手をかざした。そして――迫りくる、束ねられた精靈(アーコン)の力を、その指で手繰(たぐ)った。命じられ縛られた精靈(アーコン)たちの、その縛めの糸を一本ずつほどくように。


 刃が、ほどけた。


 束ねられていた精靈(アーコン)たちが解き放たれ、白銀の力が霧散した。


 ミラは、息を呑んだ。アズライールのルビーの瞳が、見開かれた。彼の最強の一撃を――キサーラは、力で打ち砕いたのではない。ただ、ほどいて無に帰したのだ。


「・・・縛めを、解くか」と、アズライールが、低く唸った。「面妖な、技を」


「あなたは、精靈(アーコン)を、奴隷にする」と、キサーラは、静かに言った。「私は、それを自由にした。それだけのことです」


 アズライールの顔が歪んだ。「精靈(アーコン)は道具だ。月の御心に従う、道具にすぎぬ!」


 彼は、再び、神器を振るった。今度は、傍らの異形の騎獣が咆哮し、同時にその硬い外骨格から、無数の鋭い棘を射出した。同時に、塩の大地のあらゆる方角から、束ねられた精靈(アーコン)の刃が、キサーラへと殺到した。


 月の最上位審問官の力は、凄まじかった。


 キサーラは、解き、()なし、受け流した。けれど、次々と襲いくる、月の権能を、すべて、処理することはできなかった。一党は、手出しできなかった。セレナが、精靈(アーコン)に呼びかけようとしても、その精靈(アーコン)は、すでにアズライールに、命じられている。ロウの牙も、ガルドの斧も、月の力の前では、届かない。力の次元が、違った。


 戦いは、拮抗した。


 黄金の女と、青き告死天使。ほどく力と、命じる力。旧き知の、もうひとつの末裔と、月の権能。二つの力は、塩の果ての、館の門前で、幾度も、激しく、ぶつかり合った。どちらも、退かず、どちらも、決定打を、欠いた。


 そして――その、激しい衝突の衝撃が。


 塩の大地を、地の底まで、震わせた。


 最初、ミラは、それを、戦いの余波だと、思った。けれど、違った。地鳴りは、二人の力が、収まったあとも、止まなかった。むしろ、大きくなった。足元の白い塩が、震え、(ひび)割れた。


 そして、背後の――黒い館が。


 目を、覚ました。


 館の壁という壁に走っていた、淡い光の筋が、いっせいに、強く、灯った。ガルドの板が、キサーラの指に応えたときの、あの光が、館全体に、満ちた。門の奥の闇から、まばゆい光が、溢れ出した。


「・・・これは」アズライールの声に、初めて、戦い以外の何か――(おび)えに、近いものが、混じった。「まさか」


 光が、門から、奔流のように、流れ出してきた。


 いや、光だけでは、なかった。


 その光の中に、ミラは、見た。おびただしい、数の――文字を。見たこともない、古き、文字。記号。言葉。それらが、川のように、滝のように、門から、流れ出し、空中で、渦を巻き、寄り集まって――ひとつの、巨大な、人の形を、成していった。


 肉体では、なかった。文字と、光だけで、編まれた、人型。動くたびに、その身の上を、無数の古き文字が、流れ、また、新たな文字が、生まれては、消えた。


 そして、声が――響いた。


 ひとつの声では、なかった。太古より、この館に、納められた、数えきれぬ言葉が、数えきれぬ声が、すべて、重なり合った――合唱のごとき、地鳴りのごとき、響き。


『・・・誰だ』


 その声に、塩の大地が、震えた。


『我が、眠りを――我が、守りし、叡智の館を。揺るがした、者は』


 ミラは、その場に、立っていることすら、できなかった。膝が、笑った。これは――精靈(アーコン)でも、月のものでも、ない。もっと、根源的で、もっと、巨きな、何か。地上の者が、恐れ、伝承に語る――魔王。塩の果ての、白の底に眠ると、言い伝えられる、(ぬし)


 光と文字の人型の――その視線(まなざし)が、まず、告死天使アズライールに、向けられた。


 その瞬間、空気が、凍った。


『月の匂いがする』と、無数の声が、言った。冷たく、峻厳に。『叡智を、封じる者。奪い、独り占めにし、地上から、隠し続ける者。――叡智の破壊者よ』


 光と文字の人型の片手に――光の剣が、(あらわ)れた。


 それは、温かくも、容赦のない、知の光であった。アズライールの神器の冷たい白銀とは、対極の。


『汝のような者にこそ』と、声は、言った。『我が、守りの力は、振るわれる』


 光の剣が、一閃した。


 アズライールは、辛うじて、それを、神器で、受けた。けれど、その衝撃で、彼の体は、後方へ、大きく、弾き飛ばされた。月の最上位審問官が――その一撃で。異形の騎獣が、主を守ろうと、間に割って入ったが、その硬い外骨格の獣すら、ナブーの光の前では、(おび)え、後ずさり、低い、からくりめいた悲鳴を、上げた。


 アズライールは、塩の上に、片膝を、ついた。


 そして、彼のルビーの瞳に――ミラには、信じられぬものが、宿った。


 恐怖では、なかった。


 歓喜にも、似た、確信であった。


「やはり」と、アズライールは、呻きながら、笑った。「やはり、そうだ。封じられし、魔王。地上に、滅びを招く、旧き知の化身。それを――その異端の女が、解き放った!」


 彼は、立ち上がった。よろめきながら、それでも、その正義を、燃え上がらせて。


「見たか! これが、封じられし知の正体だ! 私は、正しかった! 月の御心は、正しい! 異端を、討たねば、地上は、滅びる――!」


 ミラには、わかった。この男は、今、この瞬間――何かから、逃れている。自分の心の奥底にある、何か、揺らぎのようなものから。それを、この、「異端が魔王を解き放った」という、確信で、塗り潰そうと、している。その必死さが、かえって、痛々しかった。


「だが」と、アズライールは、歯を、食いしばった。異形の騎獣に、跨りながら。「魔王と、異端を、同時に相手取るは、今は、利あらず。――月神殿に、報じる。態勢を、整え、必ず、戻る。そのときこそ」


 彼のルビーの瞳が、キサーラを、射抜いた。


「貴様も。この、魔王も。地上の滅びの種、すべて――この、アズライールが、討ち果たす」


 異形の騎獣が、咆哮し、塩煙を上げて、駆け出した。


 青い髪が、塩の果ての風に、ひるがえり――やがて、その姿は、白い地平の彼方へと、遠ざかっていった。


 告死天使は、退いた。されど、その執念は、退くどころか――いっそう、燃え盛って。


 あとには。


 文字と光の巨大な人型と――キサーラたちが、残された。


 ナブー、と、伝承に語られる、知の守護者の視線が、今度は、ゆっくりと、キサーラへと、向けられた。


 ミラは、身を、固くした。アズライールを、あれほどの一撃で、退けた、その力。それが、今、キサーラに、向く。


 けれど。


『・・・月でも、ない』と、無数の声が、言った。その響きから、峻厳さが、わずかに、引いていった。『魔でも、ない。叡智を、封じる者でも、奪う者でも、ない。汝は――』


 光と文字の人型は、キサーラを、見据えた。


『古き、根より、来たる者』


 ミラは、その言葉に、覚えが、あった。塩ノ原に、キサーラが、初めて降り立った、あの夜。霧の精靈(アーコン)が、彼女を、そう、呼んだ。古き根より、来たる者、と。旧き叡智より、生まれたものは、皆――精靈(アーコン)も、この、知の守護者も――キサーラを、同じ言葉で、認めるのだ。


『汝は、叡智を、求めて、来た』と、ナブーの声は、言った。光の剣が、静かに、収められた。代わりに、その身を成す、無数の光と文字が――まるで、門が、開くように、ひらけていった。『破壊者には、あらず。求道者よ。――ならば、我が、門は、汝に、開かれている』


 キサーラは、しばらく、その光と文字の巨大な存在を、見上げていた。


 そして、彼女の金の瞳に――ミラの初めて見る、深い、深い、感慨が、よぎった。驚きと、懐かしさと、そして、長く求めてきたものに、ついに、辿り着いた者の――静かな、震えが。


 キサーラは、その光に向かって、口を、開いた。


 そして、ミラには、聞いたことのない、名を――けれど、その響きに、何か、太古の重みを、宿した、名を、口にした。


「あなたは」と、キサーラは、言った。「ナブー」


 光と文字の人型が――その名に、応えるように、ひときわ、強く、輝いた。


『久しいな』と、無数の声が、答えた。『その名を、正しく、呼ぶ者と、まみえるのは。――気の遠くなるほどの、歳月ぶりだ』


 知の守護者ナブーの開かれた光の門の、その奥に。


 ミラは、見た。


 数えきれぬ、光が。失われた言葉の、すべてが。そして、おそらくは――キサーラが、長く、求めてきた、「自分は、何者か」という問いの、答えが。


 静かに、その、奥で、待っていた。


「行きましょう」と、キサーラは、仲間たちを、振り返って、言った。その声は、静かで、けれど、確かだった。「ここまで、来たのです。――真実を、見届けに」


 そうして、黄金の女は、開かれた、知の光の門へと――その、最奥へと、一歩を、踏み出した。


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