第三章 塩の果てへ 六節
六節
黒い館の門は、開いていた。
いや、開いている、というより――太古の昔より、ただ、口を、開けたまま、誰かを待ち続けていた、と云う風であった。塩の大地より聳え立つ、旧き叡智の巨大な普請。その入口は、見たこともない、滑らかな素材で縁取られ、奥には淡い光の筋が、ガルドの板と、同じように、仄かに灯っていた。
一党は、その門前に立った。
「・・・入るのか」と・・・ロウが、低く唸った。
「ええ」と、キサーラが言った。その金の瞳は、館の奥の淡い光を見つめていた。「ここに、すべての答えが・・・」
ミラが、その門の闇へ一歩・・・踏み出そうとした、正にその刹那。
背後で。
塩の大地が、低く震えた。
一党は、いっせいに、振り返った。
そして、ミラは見た。
あの、夜ごと地平に灯っていた、青い光が――遂に、眼前にその正体を現したのを。
異形の騎獣であった。馬でも駱駝でもない。硬い外骨格に全身を覆われた、半ば生き半ば造られた、悍ましくも美しい、獣。その背に、ひとりの男が跨っていた。
青く長い髪が、塩ノ原の風にゆらめく。瞳は、紅玉のように、深く赫い。その美しさは、人のものとは思えぬ造型。月光を、そのまま、人形に彫り上げたような――冷厳で端正過ぎる、畏怖を内包する美。
ミラの足が竦んだ。
その男を、ひと目見ただけで分かった。これは――地上の者ではない。これは、月のものだ。それも、ただの使徒ではない。ずっと、ずっと・・・上位の何か。
男は、異形の騎獣の背から、音もなく降り立つ。
そして、よく透る冷たい声で告げた。
「東の遺跡の封印を、破りし者。月神殿が、太古の昔より封じてまいりし、禁域を暴きし者」その、紅玉の瞳が、一党を、ひとりひとり舐めるように見据えた。「そして今、最後の最も深き禁忌の地へ、足を踏み入れんとする〈異端〉よ」
男の手が、腰の――見たこともない、白銀の異様な意匠の何かに添えられた。
「我が名は、アズライール。月神殿・最上位審問官」
その名乗りに、空気が凍った。
「お前たちが、ここで為そうとしているコトは」と、アズライールは朗々と言葉を続けた。「地上に、滅びを招き入れる冒涜の所業である。封印されし旧き叡智は――大地を焼き、海を干し、人を人ならぬものに造り変えた滅びの業。それを暴く者は喩え其の者に自覚がなくとも――地上の罪なき無辜の民、全てを再び破滅の業火に、突き落とす大罪人なのだ!」
ミラには分かった。この男は――本気で、そう信じている。
悪意で、立ちはだかっているのではない。この男は、心の底から自分が正しいと信じている。地上を守るために、ここに来たのだ・・・と。それが、却って底知れず恐ろしかった。
「投降せよ」と、アズライールは言った。「さすれば、苦しみは与えぬ。月の御心に従い、その異端の知を永遠に封じる。――これは世界の安寧のためなのだ」
ロウが牙を剥いて、前に出ようとした。ドレクが、震える手で何とか得物を握った。ガルドが、斧の柄を両の手で固めた。セレナが、青褪めながら精靈の言葉を唱えようとした。
けれど。
「皆さん」と、静かな声がそれらを制した。
キサーラであった。
黄金の女は、仲間たちの前に、ゆっくりと、歩み出た。そして、告死天使の紅玉の瞳を、真っ直ぐにま見据えた。動じる気配は微塵もなかった。渇きの旅にも、夜の凍えにも、揺らがなかったその佇まいは、月の狩人を前にしても、白い塩のように静かであった。
アズライールの紅玉の瞳が僅かに細められた。
彼は――この、黄金の女をひと目見て、何かを感じたようであった。これまで、彼が狩ってきた半端な異端どもとは・・・違う。本物だ。月の御心に、真っ向から立ちはだかりうる、本物の――そして、何処か彼の知る誰かの面影を宿す・・・何か。
「お前は」と、アズライールは問うた。その声には、僅かながら抑えきれぬ、昂りが混じっていた。「何者だ。月のものでも、魔のものでもない。精靈を、物のように解き、月の封印を紙の如くすり抜ける。――お前は、いったい、何だ」
キサーラは、すぐには答えなかった。
彼女は、アズライールを――いや、彼の佩いた白銀の神器と、傍らに侍る異形の騎獣を、静かに視ていた。そして、その金の瞳に、深く遠い色が過ぎった。まるで、その神器も獣も、彼女には、見覚えのあるものであるかのように。
「あなたこそ」と、キサーラは、静かに問いを返した。「ご自分が、何を手にしているか、ご存知ですか」
「・・・何?」
「その神器も。その獣も」キサーラは、言った。「あなたが、滅びの種と呼ぶ、旧き叡智の――まさに、その技で、造られたもの。あなたは、旧き知を、滅びの種と呼びながら、その滅びの種の力を借りて、私を討とうとしている」
アズライールの表情が、毫かに強張った。
「これは」と、彼は、神器を握りしめた。「月神より賜りし、聖なる権能。お前の言う、汚れた旧き知とは――」
「同じものです」と、キサーラは、静かに、しかし・・・揺るぎなく言った。「月は、旧き叡智を、すべて封じたと、あなたは信じている。けれど、月は、その知を捨ててはいない。封じ、独り占めにし、地上の者には使わせず、おのれだけが用いている。――あなたに、神器として持たせているように・・・」
ミラは、息を呑んだ。
アズライールは、何も言い返せなかった。
その、わずかな沈黙の隙に。キサーラは、最後の一矢を放った。
それは、彼女が、敵意で放った言葉ではなかった。むしろ、井戸の主に心を寄せたときと同じ――静かな問いであった。
「アズライール」と、彼女は、言った。「あなたは、旧き知を封じることを、地上を守ることだと、信じている。けれど――問わせてください。知を封じ奪い、地上の者から、おのれが何者であったかを、永遠に知らせぬこと。それは、本当に守ることなのですか?それとも――月が、地上から、何かを奪い続けるための、別の何かなのですか?」
アズライールの紅玉の瞳が。
大きく――見開かれた。
ミラには、何が起きたのかわからなかった。けれど、その瞬間、月の狩人の完璧に、整った冷たい仮面に――確かに、罅が走ったのを見た。彼の神器を握る手が、震えた。その唇が、声にならぬ何かを形作った。
お前の剣は、地上を守るためか――それとも、月が地上から、何かを奪い続けるためか。
遥かな古、白い月の下で、彼が、その手で葬った恩師の――最期の問いと。
寸分、違わぬ問いであった。
キサーラは、知らない。彼女は、ただ自分の見た真実を問うただけ。けれど、その問いは、まるで亡き師イラリオンが、この黄金の女の口を、借りて蘇ったかのように――告死天使の、いちばん深い、認めぬ痛みの中心を正確に貫いた。
「ーー黙れ」
アズライールの声が、初めて荒れた。
「黙れ!」彼は、ルビーの瞳に苦悶を滲ませながら、神器を、抜き放った。「月の御心は、正しい。私は・・・私の裁きは、正しかった! 貴様のような、異端の世迷い言に――惑わされてなるものか!」
白銀の神器が、塩ノ原の光を跳ね返して、青白く燃え上がった。
その瞬間――一党の足元の塩の大地から、わずかに残っていた、土地の気配が、引きずり出されるように、神器へと吸い寄せられた。アズライールの神器が、地表のわずかな精靈すら・・・命じ従える――月の権能。
空気が、唸りを上げた。
「キサーラ!」と、ミラは叫んだ。
白銀の光が、告死天使の手から、黄金の女めがけて、放たれた。
キサーラの額の琥珀が、強く灯った。彼女は構えた。仲間を、背に庇いながら。
二つの力が――月の権能と、旧き知の、もうひとつの末裔とが。
塩の果ての館の門前で、初めて・・・激しくぶつかり合った。




