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第三章 塩の果てへ 五節

挿絵(By みてみん)


五節


 〈白い地獄〉というモノがあるのなら。


 それは、きっとここのコトだ・・・と、ミラは思った。


 塩の果てへの道に入って、もう幾日になるか、ミラには、わからなくなっていた。来る日も来る日も同じ景色。地平の端から端まで、ただ、白い塩だけ(・・)が続いていた。木も岩も影すらも・・・ない。日輪が昇れば、塩原が鏡となって、陽光を反射して目を灼くし、空気は熱いし乾くし、ひと息ごとに、喉の奥から水気が奪われてゆくし・・・。


 水も、もう、(ほとん)ど残っていない。


 革袋を振っても、底のほうでかわいい(・・・・)音が・・・するだけ。誰もが、唇をひび割れさせ、足を引きずり、満身創痍(まんしんそうい)で歩いていた。塩の結晶が、足の裏を削り、革の(くつ)を、すり減らしてゆく・・・。


 ドレクの足取りが、いちばん危うかった。


 脇腹の古傷が、乾きと熱で、(うず)くのだという。それでも、彼は弱音を吐かなかった。愛する妹を森に残してきた男は、何かに追い立てられるように、歯を食いしばって足を前に出した。


 ガルドは、太い体に汗ひとつ()かなくなっていた。汗をかく水すら、体に残っていない証拠だ。それが、危険な兆候だと、渡り手のドレクが、低い声で言った。


 ロウは――狼獣人(ヴォルゲン)のロウすら、苦しんでいた。


「鼻が・・・利かねえ」と、彼は唸った。「この白い地には、匂いがねえ。生き物の匂いも、水の匂いも、何もかも。塩が、全部消しちまう。俺の鼻が・・・まるっきり役に、立たねぇ・・・」


 セレナも、青ざめていた。「精靈(アーコン)の声が・・・遠いのです。この地には、精靈(アーコン)が、(ほとん)ど居ない。生命の薄い地。私の力も、ここでは・・・ほとんど無力です・・・」


 一党の、それぞれの力が、この白い死の地では、ことごとく削がれていった。


 ただ、ひとり。


 キサーラだけが、変わらなかった。


 ミラは、それに気づいていた。黄金の女は、この灼熱の中を幾日歩いても、渇かなかった。疲れなかった。唇は、ひび割れず、足取りは乱れなかった。塩の照り返しも、その金の瞳を灼かなかった。


 以前のミラなら、それを不気味に思ったかもしれない。ロウが、人の匂いがしないと言い、ガルドが、人ならぬものと見抜いた、あの異質さを。


 けれど、今は違った。


 キサーラの人ならぬ身が――この白い地獄では、何よりも、ありがたいものに、なっていた。


 水が、尽きかけたとき。


 キサーラは、足を止め、暫く白い大地を見渡す。それから、ある一点へと皆を導いた。何の変哲もない、白い塩の窪み。


「ここを、掘ってください」と、彼女は、言った。「深くは、ありません。この下に――まだ、ひとつだけ、生き残っている、古い水の精靈(アーコン)がいます。旧い海の最後の名残。わずかですが、湿りがあるはずです」


 半信半疑で、ガルドが塩を掘った。


 すると――確かに。塩の層の、その下から、わずかに湿った砂が現れた。さらに掘ると、にじむように濁った水が染み出してきた。多くはなかった。けれど・・・ひび割れた唇を湿らせ、もう一日、歩くには足りた。


 ミラは、その濁った水を口に含みながら、キサーラを見た。


 セレナですら、声を聞けなかった、この地の、わずかな精靈(アーコン)を。キサーラは、感じ取った。彼女には、生命の恵み薄いこの地でも、見えるのだ。誰にも、見えぬものが。


「あなたが、いなければ」と・・・ミラは、かすれた声で言った。「わたしたち、とっくに死んでた」


「いいえ」と・・・キサーラは、静かに首を振った。「あなたたちが、いなければ――私は、この水を掘る意味すら知らなかった」


 苦難は、渇きだけではなかった。


 白い塩の際限ない照り返しは、人の目と心を狂わせた。


 ある昼、ドレクが、突然道を外れて歩き出した。


「リナ」と、彼は譫言(うわごと)のように呟いていた。「リナがいる。あそこに・・・森が。リナが待ってる・・・」


 ミラには、何も見えなかった。ただ、白い塩と、揺らめく陽炎(かげろう)があるだけ。けれど、ドレクには、見えていたのだ。蜃気楼(しんきろう)が見せる、幻。彼の、いちばん会いたい者の幻。


 ドレクは、ふらふらとその幻のほうへ、歩いていった。誰も、止める力が残っていなかった。


 そのとき、キサーラが動いた。


 彼女は、ドレクの前に回り込み、その肩を、両手でしっかりと掴んだ。


「ドレク」と、彼女は、彼の目をまっすぐに見て言った。「あなたが()ているのは、幻です。リナは、あそこにはいません。森に――白樹の森にいます。あなたが、必ず帰ると約束したあの森に・・・」


 ドレクの虚ろな目が揺れた。


「約束を」と、キサーラは繰り返した。「思い出して。あなたは、リナにお土産を持って帰ると、約束した。幻のリナでは、なく――本当のリナのもとへ、帰るのです」


 ドレクの目に、少しずつ光が戻った。そして、彼は、その場に崩れ落ち嗚咽(おえつ)した。「・・・すまねえ。俺は・・・」


「謝ることは、ありません」と、キサーラは言った。「あなたが、それだけ妹を想っている、というだけのこと。――その想いは、幻ではなく本物です」


 キサーラは、幻に惑わされなかった。彼女の目は、蜃気楼(しんきろう)を見破った。そして、惑う者を、(うつつ)へと引き戻した。


 夜は夜で、地獄であった。


 昼の灼熱が、嘘のように、塩の果ての夜は、凍えた。熱を蓄えぬ白い大地は、日が沈むと、たちまち骨まで凍る、冷気に包まれる。燃やす木も草もない。一党は、わずかな荷の布にくるまり、互いの体を寄せ合って、震えながら夜をしのいだ。


 ロウが、その大きな体で皆を囲うように横たわった。「狼の生毛布だ」と、彼はぶっきらぼうに言った。「素肌より、(あった)けえ。・・・皆寄れ」


 ガルドが、僅かな油と遺物の金物を工夫して、小さな心もとない火を(おこ)した。


 そして、キサーラは――その、寒さに動じぬ身を張って――いちばん冷える、風上に位置し座って、皆への風よけとなった。


 ミラは、震えながらその黄金の背中を見ていた。


 寒さを、感じぬのなら。疲れも渇きも、感じぬのなら。この人は、なぜ、わざわざ私たちと、こんな苦しい旅をしているのだろう。観るだけなら、もっと楽な、やり方があったろうに。


 でも、ミラは、もうその答えを知っている気がした。


 この人は、もう、ただ観ているのではない。


 共に、いるのだ。


 その夜。


 ミラが、寒さに半ば眠れぬまま、目を開けたとき。


 遠い、地平の彼方に。


 青い、光が見えた。


 月の光では、なかった。月は、反対の空に出ていた。それは、もっと低く・・・地平すれすれに、ひとつだけ灯る、青い炬火(たいまつ)のような――いや、髪のような光であった。そして、その傍らに、何か硬い獣のような影が、控えているのが、見えた気がした。


 ミラの背筋が凍った。寒さでは、なく。


 その光のほうを、見つめている者が、もうひとり・・・いた。


 キサーラである。


 風上に座った黄金の女は、眠る皆を起こさぬよう、ただ静かに、その青い光を見据えていた。その横顔は、いつもの穏やかさとは違って、硬く張りつめていた。


「キサーラ」と、ミラは、小さく(ささや)いた。「あれは・・・」


「眠りなさい、ミラ」・・・と、キサーラは、視線を青い光から外さぬまま、静かに言った。「まだ、遠い。けれど――確実に、近づいている」


 ミラは、それ以上訊けなかった。


 ただ、わかったのは――この白き死の地で、渇きや、寒さ、幻などと、戦っている間にも。


 何か、別の、もっと恐ろしいものが、自分たちの、すぐ後ろを、着実に追跡し、接近している・・・と云うことだけ・・・であった。


 翌朝。


 歩き疲れた一党の行く手の地平に。


 ミラは、初めて、白以外の何かを・・・見た。


 遠く、陽炎(かげろう)の、向こうに。塩の大地から突き出すように、(そび)える――黒い影。自然の岩でも、山でもない。明らかに、何者かの手で造られた、巨大な、構造物のシルエット。


 塩の果ての、最奥。


 旧き海の、もっとも深かった底に、眠るという――失われた言葉の(やかた)が。


 ついに、その姿を地平に(あらわ)しはじめていた。


「・・・着いた」と、ドレクが、かすれた声で呟いた。


 けれど、ミラの胸に湧いたのは、喜びだけではなかった。


 前には、未知の旧き叡智の館。


 後ろには、青い光の追っ手。


 一党はいま、その二つの狭間(はざま)に立っていた。

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