第三章 塩の果てへ 四節
四節
群れには〈頭〉がいた。
それは、他のどれよりも、大きく、他のどれよりも、深く狂っていた。岩山が、歩いているような、体躯。塩に灼けた、古い傷だらけの皮。そして、その内に、キサーラが視たのは・・・結び目というより、もはや、固い瘤だった。恐怖が、幾重にも巻きつき締まり、精靈そのものの、原型が判らぬほどに縺れきっている。
群れの狂奔は、この一頭を起点とすると考えられる。頭が怯えるから、群れが怯える。頭を鎮めねば、百の縺れを解いても、これは終わらぬ。
キサーラは輪を出た。
「おい・・・!」ドレクの声が、背中に当たって砕けた。
彼女は異常な身軽さで空を舞い、その巨躯の正面へ躍り出た。金の髪が、土煙の中でそこだけ、別の光を放つ。群の頭が、彼女を認めた。濁った眼が据わり、大地を蹴る。岩山が、キサーラ目掛けて雪崩れ込んでくる。
彼女は、避けなかった。
塩の大地に、静かに膝をつく。両の手を、伸ばす。迫る牙が、彼女の肩先を掠め・・・滑った。まるで・・・そこだけ、世の理が違うかのように。だが、それを確認できた者はいない。誰もが、目を覆ったから。
彼女の両手は、既に瘤の最深部に触れていた。
――大丈夫。
声にはならぬ。ただ、指が語る。幾重にも、巻きついた、恐怖の糸を、外から、一本ずつ、たぐる。素早く・・・だが、急がず破らず、糸の流れを読み・・・流れを丁寧に導き糺す・・・走りたい方へ、走らせる。
――もう、追われていない。ここには、恐いものはいない。
瘤が、緩んだ。
巨躯が、びくりと震え、それから・・・長い、長い、息を吐いた。腹の底から、大地を震わせるような・・・それは咆哮ではなかった。安堵の音だった・・・。
潮が引くように、頭の安堵は、群れ全体へと広がった。頭から垂れ流されていた恐怖の波動は鎮まり。狂奔していた獣たちも、一頭、また一頭と、足を止め、澄んだ眼で、互いを見交わし、戸惑ったようにうろつき・・・やがて、頭が徐に身を、起こし、来た道とも、行く手とも・・・別の方角へ歩き出すと、群れはそれに従った。
白い大地に、蹄の音が遠ざかってゆく。
跡には、砕けた車が二台。火の残り煙。そして、立ち尽くす人々。誰も、すぐには声を出せなかった。塩商の頭が、ようやく掠れた声で言った。
「・・・嬢さん、あんたいったい・・・」
キサーラは、答えず立ち上がって、まっすぐ、ロウのもとへ近づいた。
彼は、車輪に背を預けて、座り込んでいた。肩から脇腹へ、三筋の深い裂け目。ミラは、既に、傍らで、布を押し当てていた。キサーラは、その隣に膝をつき、傷を看た。観るのでは、なく・・・看た。指が、傷の縁に触れる。ロウが、僅かに呻く。
「なぜ、庇いました」
彼女は訊いた。本当に、判らなかったから。彼女の身は、あの牙程度で、裂けはしなかったのに。だが、ロウはそれを知らぬ。知らずに、裂かれる側へ身を入れた。
狼の男は、痛みに顔を歪めたまま笑った。
「群れだからだ」
それだけだった。それだけの言葉が、彼女の内の名づけられぬ疼きを、また、再確認させた。
ドレクが、薬籠を提げて来た。傷を検め、指で縁を開き、口笛を吹く。
「運がいいぜ、狼の旦那。派手に見えるが、浅い。牙が、滑ったんだな。・・・縫って塗りゃあ、十日で塞がる」
驚くほど、手際よく手当は進む。針が走り、薬草の青い匂いが立つ。「渡り手ってのはな」と、彼は手を止めずに言った。「道の上じゃ、医者の真似事もできなきゃ、務まらねえのさ」その声が、いつになく優しかったのを、ミラは聞いていた。妹を、看てきた者の手つきだと思った。
その夜の野営の火で、塩商の頭が、革袋の残りの酒を、皆に注いで回った。そして、言いにくそうに告げた。
「・・・夜が明けたら、俺たちは北の環道の方へ向かう。はなから、そういう旅程だった。最奥まで、行くってのは・・・あんたらみたいな命知らずの酔狂モノだけだ」
その目が、ちらりとキサーラを掠めた。畏れとも、拝みともつかぬ色が、そこにあった。命を救われた。それは・・・判っている。判っていて、なお・・・近づき難い。人の心とは、そういうもの。キサーラは、それも静かに観ていた。
少し離れて、ガルドが、独り獣たちの、去った方角を睨んでいた。職人の眼は、去っていった頭の巨躯・・・その、古傷の並びを、思い返している。あの傷は、牙の痕などではない。もっと直線的で、もっと冷たい、鋭利な・・・いや。職人は、頭を振った。判らぬものを、判ったと言わぬのが職人だ。ただ、胸の棚の奥のほうへ、その違和感は留めておくことにした。
「なあ」と、ドレクが、誰にともなく言葉を放った。「魔獣の群れが、縄張りを捨てて、逃げるなんてよ。・・・ありゃあ、一体・・・何から逃げてたんだ?」
誰も、答えなかった。
ロウだけが、繕われた傷を押さえたまま、顔を上げていた。来た道の彼方。何も見えぬ、白い空。その鼻が、もう一度だけ、小さく動いて、それきり、彼は口を噤んだ。
その夜、野営の火の傍で、キサーラは、眠らぬ目で、赤黒く染みの残る、塩の地面を見ていた。
――観るだけで、いられるなら、あの赤は流れなかった。
その考えが、どこから来たのか、彼女には、まだ判らなかった。




