第三章 塩の果てへ 三節
三節
塩の道を往くこと・・・三日。
白い大地は、どこまでも平らかで、朝の光を跳ね返しては、目の奥を刺した。リム・サラディアで道連れとなった塩商の一行が、十ほどの荷車を連ね、その列の中ほどに、キサーラたちの荷車も、加わっている。単調な軋みの音。単調な蹄の音。話の種も二日で、尽きかける。
「魔獣ってのはよ」と、ドレクが、退屈しのぎに口を開いた。「案外、律儀なもんでね。縄張りさえ、踏まなけりゃ、向こうから来るこたぁ、まずない。塩の道が道として残ってるのは、つまり・・・そういうことさ」
「獣が律儀なのではない」御者台のガルドが、手綱を握ったまま、訂正した。「内に棲む精靈が、境界を識っておるのだ。獣の腹と精靈の分別。二つで一つ・・・だから魔獣は、獣より賢い」
「へえ。じゃあ・・・安心だ」
「境界が、まとも・・・ならな」
その言葉が、落ち暫くして・・・。
列の先を歩いていたロウが、ふいに足を止めた。
鼻先を、上げる。風は、南から・・・乾いた、塩の匂いしか、運ばぬはずの風。その狼の鼻梁に、深い皺が寄った。
「・・・匂いが、狂ってる」
「何のだ」ガルドが、問う。
「群れだ。魔獣の。数が・・・多い。けど、それより」ロウの声が、低くなった。「怯えてる。群れ全部が。何かに、追われてるみたいに」
誰かが、南を指した。
白い地平の上に、土煙が立っていた。細く、一筋・・・と見えたものが、みるみる、横へ広がってゆく。地鳴りが来た。荷車の板が、細かく震えはじめる。
「縄張りを捨てて、走っておる」ガルドが、呻いた。「魔獣が、群れごと道へ侵入してきた・・・」
「車を回せッ!」
塩商の頭が叫んだ。だが・・・遅い。荷車の列は、長く伸びきっている。ガルドが御者台から、跳び降りた。
「輪だ! 車を輪に組め! 荷を捨てい、車体を外へ傾けろ・・・牙は、板を滑らせて、勢いを殺せ!」
職人の声には、人を動かす力がある。塩商たちが、我に返って、車を回しはじめた。ドレクは、もう走っていた。荷から、油壺と、火口を、引っ掴んで。「風下に、火をおくれ! 煙だ、煙で、鼻を潰す!」
土煙が、形を成した。
岩のような肩。塩に、白く粉を吹いた厚い皮。濁った眼。一頭でも、荷車を砕く獣が・・・数えるのが面倒臭くなる程いた。その眼が、どれも同じだった。熱に、浮かされたような、焦点の合わぬ濁った目・・・。
キサーラは、輪の内から、静かにそれを観ていた。
視える。獣たちの内に棲む、精靈たち。それが、ことごとく縺れていた。結び目が、固く、固く、引き絞られて、悲鳴のような、震えを上げている。獣を、駆り立てているのは、飢えではなく。・・・恐怖だ。共生する精靈の恐怖が宿主の獣を、内から鞭打っている。
――何に、怯えている。
問う暇はなかった。最初の一頭が、輪に達する。
傾けた車体に、牙が、当たり、滑って、火花のような、塩の粉が、散った。車が、丸ごと、押される。悲鳴。ドレクの火が、風下で、上がり、油煙が、黒々と流れて、群れの一角が、怯んで割れた。だが、割れた分だけ、別の側へ回り込む。
「子どもを、車の下へ!」
ミラの声だった。塩商の幼子が、輪の内で、立ちすくんでいた。ミラは、駆けてその体を抱え込み、車軸の陰へ押し込んで・・・自分の背中で蓋をした。武器も持たずに。ただ、背中一枚で。
キサーラは、動いた。
輪の際まで、進み出て、迫る一頭の内の結び目へ、指を伸ばす。触れも、せぬ。ただ、糸を手繰る仕草。・・・解けた。獣が、つんのめるように止まり、濁った眼が澄んで、きょとんと瞬いて、身を翻し、群れを離れて走り去った。
一頭。また、一頭。彼女の指が動くたび、狂奔から解き放たれた魔獣が、正気に返ってゆく。
だが、遅い。
ほどく端から、牙は来る。彼女の手は、二本しかない。群れは多すぎた。三頭目を解いた、その背後・・・死角から、一頭が、輪の破れ目を抜けて、彼女の無防備な、背へ。
「――ッ」
黒い影が、横から割り込んだ。
ロウだった。彼女と、牙との、間に、身体ごと入って。爪が、彼の肩から脇腹へ、深く裂いた。血が、塩の上に、赤く散った。それでも彼は退かず、喉の奥から、獣の咆哮を放って、相手を怯ませ、押し返した。
キサーラは、観た。
白い地面に、落ちる・・・赤。自分のために、流された・・・それを。
胸の奥で、何かが疼いた。名前のない、疼き。観察には要らぬはずの、それが、彼女の指を、次の結び目へ・・・これまでより、速く走らせた。




