第三章 塩の果てへ 二節
二節
月神殿の最も奥まった祈りの間は、いつも冷たかった。
白銀と、白磁と、淡い青。月の色だけで、組み上げられた対称の空間。そこには、温もりというものが、ひとかけらも許されていなかった。温もりは、乱れである。乱れは、滅びの兆しである。月の御心に仕える者は、まず、おのれの内なる温もりを、凍てつかせることから・・・始める。
アズライールは、その冷たさを愛していた。
月神殿の最上位の審問官。それが、彼の位であった。
青く長い髪が、月の光を弾いて、白銀の床に、影を落としていた。その瞳は、紅玉のように、深く紅い。地上の女たちは、その美しさに息を呑み、そして、その目の奥の底知れぬ冷たさに、震え退いた。学業においては、月神殿の経典をことごとく諳んじ、武道においては、神殿の剣士の誰一人、彼に立ち合って三合と保たぬ。彼は、月神殿が幾星霜にひとり、生み出すか否かという、完成された剣であった。
その剣に、新たな命が下されていた。
東の古き遺跡。月神殿が、太古の昔より、封じ続けてきた禁域。その封印を、破った者がいる。その者を討て・・・と。
アズライールにとって、この務めは、単なる咎人狩りではなかった。
それは、聖戦であった。
なぜ、月の御心は、旧き遺跡を封じるのか。なぜ、言葉を納めた板を、探し、集め、地上人の衆目から遠ざけるのか。地上の愚かな民は、それを、月神の気まぐれな禁忌と思っている。だが、アズライールは知っていた。月神殿の最も深い秘儀に、触れることを許された、ごく僅かな者だけが知る、真実を。
地の底には――旧き叡智の記憶が、眠っている。
気の遠くなるほど昔、この地には、月にも届かんとする、驕れる叡智の民が、栄えていた。その民は、星を従え、海を従え、ついには、おのれの分を忘れた。そして――滅びた。みずからの手で、世界を焼き尽くして。
月の神々は、その滅びから、地上の生命を救った。そして、二度と同じ過ちを繰り返させぬために、旧き叡智の、おぞましき術を、ことごとく封じた。星を焼く術。海を干す術。そして――人を、人ならぬものに、造り変える術・・・を。
もし、その封じられた知が、地上に、蘇れば。
地上は、再び滅びへの道を歩み始める。かつての、旧き叡智の民と、同じように。
ゆえに、封印を破る者は――たとえ、本人にその気がなくとも――地上に、破滅を招き入れる者なのである。アズライールがそれを討つのは、月神への忠義のためでは・・・ない。
地上の罪なき民を、守るためなのだ。
これが、アズライールの正義。
その正義は、彼の裡で一分の隙もなく筋が通っていた。揺らぐ余地など、どこにもなかった。彼は、地上を愛していた。月よりも、神々よりも、誰よりも愛していた・・・この地上の無垢なる民草を。だからこそ、彼は剣を執るのである。彼らが、二度と滅びの業火に焼かれぬように。
誰も、彼のこの高みには並べなかった。
神殿の若い審問官たちは、彼を、畏れ、敬い、そして近づかなかった。彼の確信は、あまりに硬く、あまりに孤独であった。誰も、その確信を、分かち合えなかった。アズライールは、いつも、ただひとり・・・であった。
彼は、ひとりであることを、もう〈痛み〉とは感じなくなっていた。
ただ――祈りの間の、この冷たさの中で、ふとした拍子に、彼の脳裏を、よぎるものがあった。
彼が、まだ、ひとりではなかった頃の記憶であった。
イラリオン。
その名を、アズライールは、もう、長いあいだ口にしていなかった。
月神殿の偉大なる先達。アズライールに、月の御心を教え、剣を教え、正義を教えた、敬愛した師。アズライールが、生涯でただ一人心を開いた者。父も母も知らぬ孤児であったアズライールを拾い、育て、磨き上げた・・・その人。
その師が――晩年に、迷ったのである。
封じられた、旧き叡智に触れすぎた。長い研究のうちに、イラリオンは恐ろしい疑念を抱くようになった。月の御心は、本当に正しいのか。旧き叡智を、すべて、滅びの種と決めつけ、封じ去ることは――地上の民から、彼らが本来知るべきであった、おのれの来歴を、永遠に奪うことではないのか・・・と。
イラリオンは、禁を破ろうとした。封じられた真実を、地上に明かそうとした。
そして――その師を、裁いたのが。
アズライールであった。
師みずからが、教えた正義に、従って。師みずからが、磨き上げた剣で。アズライールは、最も敬愛する者を、異端として断じ、その手で葬った。
あのとき、イラリオンは、抗わなかった。ただ最期に、弟子を静かに見つめて、こう言った。
「アズライールよ。お前は、いつか――問うことになる。お前が今、振るうその剣が、地上を守るためのものか。それとも、月が地上から、何かを、奪い続けるためのものなのか・・・を」
アズライールは、脳裏からその言葉を振り払った。
師は、迷われたのだ。長い研究が、その明晰な精神を蝕んだのだ。月の御心は正しい。地上の破滅を防ぐための、唯一の道なのだ。師は、間違っていた。だから、私は師を裁いた。それは正しかった。正しかったのだ!
以来、アズライールの確信は、鋼よりも硬くなった。
なぜなら――もし、師の疑いが正しければ。もし、月の御心が誤りであったなら。アズライールが、その手で師を葬ったあの裁きは――許されざる〈罪〉になってしまうから・・・である。
だから、彼は信じ続けねばならなかった。月の御心は、正しい・・・と。封じられた知は、滅びの種である・・・と。それを暴く異端は、討たれねばならぬ・・・と。
彼の狂信は――師を裁いたおのれを、正しいと、証明し続けるための、必死の営みであった。
そして今。
東の遺跡の封印を破り、言葉を納めた板を手にし、塩の果ての――地の底の記憶が、最も濃く眠るという、あの場所を、目指す者が現れた。
師が、かつて触れようとした、まさにその禁忌の核心へ。
アズライールは、その異端を必ず討つと定めた。
それは、月神への忠義であり、地上の民への愛であり――そして、師を裁いた、おのれの正義を、いま一度、正しいと証明する機会でもあった。あの異端を討てば、師の道は、やはり誤りであったと確かめられる。あのときの裁きは、正しかったのだと。
報告によれば、その異端は黄金の女だという。
月のものでも、魔のものでもない。精靈を、まるで紐のように解き、月神殿の封印を、紙一枚のごとくすり抜ける。地上のいかなる咒術とも異なる・・・未知の存在。
アズライールの紅玉の瞳が、細められた。
彼の研ぎ澄まされた直感が、告げていた。これは――これまで彼が狩ってきた、半端な異端どもとは・・・違う。本物だ。月の御心に、真っ向から立ちはだかりうる、本物の異端。
胸の奥で、何か久しく忘れていたものが、僅かに疼いた。
それが、武人としての昂りなのか。あるいは――師の言葉を呼び覚ます、何かへの、幽かな怯えなのか。アズライールは、それを見極めようとはしなかった。見極めることを、おのれに許さなかった。
彼は、立ち上がった。
壁に、安置された〈神器〉を手に取る。月より、最上位の審問官にのみ授けられる、白銀の道具。地上の精靈を、命じ、従え、断罪する、月の権能そのもの。それを、腰に佩いた。
祈りの間を出ると、神殿の中庭に、彼の騎獣が控えていた。
馬でも駱駝でもない。硬い外皮に覆われた、月が産み落とした、半ば生き半ば造られた、異形の獣。それは、主の気配に、低く重厚な唸りを上げた。
アズライールは、その背に跨った。
青い髪が、月の光に青く燃えた。
「行くぞ」と、彼は、誰にともなく呟いた。「塩の果てへ」
異形の獣が、音もなく駆け出した。
その背で、アズライールは、ただ一度だけ、夜空の半ば満ちた月を見上げた。
冷たくも美しい、月であった。
彼は、その月の光が――かつて、師イラリオンの最期の顔を照らしていた、あの夜の月と同じ光であることに、気づいていた。気づいていて――そして・・・それを振り払った。
月の御心は、正しい。
私は、正しい。
そう、おのれに言い聞かせながら。
けれど、その確信の、いちばん奥の奥の底のほうで。
アズライール自身も、決して、認めようとはせぬ、ひと雫の、痛みが――師の、あの最期の問いが――今もなお凍てつかず、ひっそりと疼き続けていることを。
彼を乗せた騎獣だけが、その鼓動の、僅かな乱れを聞いていた。




