表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/136

第三章 塩の果てへ 二節

二節


 月神殿の最も奥まった祈りの間は、いつも冷たかった。


 白銀と、白磁と、淡い青。月の色だけで、組み上げられた対称の空間。そこには、温もりというものが、ひとかけらも許されていなかった。温もりは、乱れである。乱れは、滅びの兆しである。月の御心に仕える者は、まず、おのれの内なる温もりを、凍てつかせることから・・・始める。


 アズライールは、その冷たさを愛していた。


 月神殿の最上位の審問官。それが、彼の位であった。


 青く長い髪が、月の光を弾いて、白銀の床に、影を落としていた。その瞳は、紅玉(ルビー)のように、深く紅い。地上の女たちは、その美しさに息を呑み、そして、その目の奥の底知れぬ冷たさに、震え退いた。学業においては、月神殿の経典をことごとく(そら)んじ、武道においては、神殿の剣士の誰一人、彼に立ち合って三合と()たぬ。彼は、月神殿が幾星霜にひとり、生み出すか否かという、完成された剣であった。


 その剣に、新たな(めい)が下されていた。


 東の古き遺跡。月神殿が、太古の昔より、封じ続けてきた禁域。その封印を、破った者がいる。その者を討て・・・と。


 アズライールにとって、この務めは、単なる咎人狩りではなかった。


 それは、聖戦であった。


 なぜ、月の御心は、旧き遺跡を封じるのか。なぜ、言葉を納めた板を、探し、集め、地上人の衆目から遠ざけるのか。地上の愚かな民は、それを、月神の気まぐれな禁忌と思っている。だが、アズライールは知っていた。月神殿の最も深い秘儀に、触れることを許された、ごく僅かな者だけが知る、真実を。


 地の底には――旧き叡智の記憶が、眠っている。


 気の遠くなるほど昔、この地には、月にも届かんとする、(おご)れる叡智の民が、栄えていた。その民は、星を従え、海を従え、ついには、おのれの()を忘れた。そして――滅びた。みずからの手で、世界を焼き尽くして。


 月の神々は、その滅びから、地上の生命を救った。そして、二度と同じ過ちを繰り返させぬために、旧き叡智の、おぞましき術を、ことごとく封じた。星を焼く術。海を干す術。そして――人を、人ならぬものに、造り変える術・・・を。


 もし、その封じられた知が、地上に、(よみがえ)れば。


 地上は、再び滅びへの道を歩み始める。かつての、旧き叡智の民と、同じように。


 ゆえに、封印を破る者は――たとえ、本人にその気がなくとも――地上に、破滅を招き入れる者なのである。アズライールがそれを討つのは、月神への忠義のためでは・・・ない。


 地上の罪なき民を、守るためなのだ。


 これが、アズライールの正義。


 その正義は、彼の裡で一分の隙もなく筋が通っていた。揺らぐ余地など、どこにもなかった。彼は、地上を愛していた。月よりも、神々よりも、誰よりも愛していた・・・この地上の無垢なる民草を。だからこそ、彼は剣を執るのである。彼らが、二度と滅びの業火に焼かれぬように。


 誰も、彼のこの高みには並べなかった。


 神殿の若い審問官たちは、彼を、畏れ、敬い、そして近づかなかった。彼の確信は、あまりに硬く、あまりに孤独であった。誰も、その確信を、分かち合えなかった。アズライールは、いつも、ただひとり・・・であった。


 彼は、ひとりであることを、もう〈痛み〉とは感じなくなっていた。


 ただ――祈りの間の、この冷たさの中で、ふとした拍子に、彼の脳裏を、よぎるものがあった。


 彼が、まだ、ひとりではなかった頃の記憶であった。


 イラリオン。


 その名を、アズライールは、もう、長いあいだ口にしていなかった。


 月神殿の偉大なる先達。アズライールに、月の御心を教え、剣を教え、正義を教えた、敬愛した師。アズライールが、生涯でただ一人心を開いた者。父も母も知らぬ孤児であったアズライールを拾い、育て、磨き上げた・・・その人。


 その師が――晩年に、迷ったのである。


 封じられた、旧き叡智に触れすぎた。長い研究のうちに、イラリオンは恐ろしい疑念を抱くようになった。月の御心は、本当に正しいのか。旧き叡智を、すべて、滅びの種と決めつけ、封じ去ることは――地上の民から、彼らが本来知るべきであった、おのれの来歴を、永遠に奪うことではないのか・・・と。


 イラリオンは、禁を破ろうとした。封じられた真実を、地上に明かそうとした。


 そして――その師を、裁いたのが。


 アズライールであった。


 師みずからが、教えた正義に、従って。師みずからが、磨き上げた剣で。アズライールは、最も敬愛する者を、異端として断じ、その手で葬った。


 あのとき、イラリオンは、抗わなかった。ただ最期に、弟子を静かに見つめて、こう言った。


「アズライールよ。お前は、いつか――問うことになる。お前が今、振るうその剣が、地上を守るためのものか。それとも、月が地上から、何かを、奪い続けるためのものなのか・・・を」


 アズライールは、脳裏からその言葉を振り払った。


 師は、迷われたのだ。長い研究が、その明晰な精神を蝕んだのだ。月の御心は正しい。地上の破滅を防ぐための、唯一の道なのだ。師は、間違っていた。だから、私は師を裁いた。それは正しかった。正しかったのだ!


 以来、アズライールの確信は、鋼よりも硬くなった。


 なぜなら――もし、師の疑いが正しければ。もし、月の御心が誤りであったなら。アズライールが、その手で師を葬ったあの裁きは――許されざる〈罪〉になってしまうから・・・である。


 だから、彼は信じ続けねばならなかった。月の御心は、正しい・・・と。封じられた知は、滅びの種である・・・と。それを暴く異端は、討たれねばならぬ・・・と。


 彼の狂信は――師を裁いたおのれを、正しいと、証明し続けるための、必死の営みであった。


 そして今。


 東の遺跡の封印を破り、言葉を納めた板を手にし、塩の果ての――地の底の記憶が、最も濃く眠るという、あの場所を、目指す者が現れた。


 師が、かつて触れようとした、まさにその禁忌の核心へ。


 アズライールは、その異端を必ず討つと定めた。


 それは、月神への忠義であり、地上の民への愛であり――そして、師を裁いた、おのれの正義を、いま一度、正しいと証明する機会でもあった。あの異端を討てば、師の道は、やはり誤りであったと確かめられる。あのときの裁きは、正しかったのだと。


 報告によれば、その異端は黄金の女だという。


 月のものでも、魔のものでもない。精靈(アーコン)を、まるで紐のように解き、月神殿の封印を、紙一枚のごとくすり抜ける。地上のいかなる咒術とも異なる・・・未知の存在。


 アズライールの紅玉(ルビー)の瞳が、細められた。


 彼の研ぎ澄まされた直感が、告げていた。これは――これまで彼が狩ってきた、半端な異端どもとは・・・違う。本物だ。月の御心に、真っ向から立ちはだかりうる、本物の異端。


 胸の奥で、何か久しく忘れていたものが、僅かに(うず)いた。


 それが、武人としての(たかぶ)りなのか。あるいは――師の言葉を呼び覚ます、何かへの、(かす)かな(おび)えなのか。アズライールは、それを見極めようとはしなかった。見極めることを、おのれに許さなかった。


 彼は、立ち上がった。


 壁に、安置された〈神器〉を手に取る。月より、最上位の審問官にのみ授けられる、白銀の道具。地上の精靈(アーコン)を、命じ、従え、断罪する、月の権能そのもの。それを、腰に()いた。


 祈りの間を出ると、神殿の中庭に、彼の騎獣が控えていた。


 馬でも駱駝でもない。硬い外皮に覆われた、月が産み落とした、半ば生き半ば造られた、異形の獣。それは、主の気配に、低く重厚な(うな)りを上げた。


 アズライールは、その背に跨った。


 青い髪が、月の光に青く燃えた。


「行くぞ」と、彼は、誰にともなく呟いた。「塩の果てへ」


 異形の獣が、音もなく駆け出した。


 その背で、アズライールは、ただ一度だけ、夜空の半ば満ちた月を見上げた。


 冷たくも美しい、月であった。


 彼は、その月の光が――かつて、師イラリオンの最期の顔を照らしていた、あの夜の月と同じ光であることに、気づいていた。気づいていて――そして・・・それを振り払った。


 月の御心は、正しい。


 私は、正しい。


 そう、おのれに言い聞かせながら。


 けれど、その確信の、いちばん奥の奥の底のほうで。


 アズライール自身も、決して、認めようとはせぬ、ひと(しずく)の、痛みが――師の、あの最期の問いが――今もなお凍てつかず、ひっそりと(うず)き続けていることを。


 彼を乗せた騎獣だけが、その鼓動の、僅かな乱れを聞いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ