第三章 塩の果てへ 一節
一節
リナが、最後に外の空を、ちゃんと見たのがいつだったか――もう、思い出せなかった。
胸を病んでからの幾年か、リナの世界は、薄暗い寝床と小さな窓から覗く四角い空の切れ端・・・だけであった。咳が、彼女の喉を夜ごと苛んだ。兄が稼いできた苦い薬を飲み、また眠り、目覚めれば、同じ四角い空がそこにあった。リナは、自分がこのままこの寝床で、世界をろくに知らぬまま終わるのだろう・・・と、ぼんやり思っていた。
それが、近頃――愛爾芙のセレナという人が、不思議な薬草を持ってきてくれてから。
咳が和らいだ。寝床から、少しずつ起き上がれるようになった。治ったわけではない。胸の奥には、まだ重いものが巣喰っている。けれど、リナは自分の足で立てるようになっていた。
そして、ある朝兄が言ったのだ。
「リナ。旅に、出ることになった。お前を、安全なところへ連れて行く」
リナは、賢い娘であった。病の床で、ずっと人の声を聴いてきた。兄が、何かを隠すとき、声が少しだけ上ずることを知っていた。そのときの兄の声は、当に其れであった。
だから、リナには判っていた。兄が、何か危ないことをしようとしていることを。でも、リナは訊かなかった。訊けば、兄が困ることも知っていたから。
荷車に乗せられて、街の門を潜ったとき。
リナは、息を呑んだ。
世界がこんなにも広いとは、知らなかった。
塩ノ原が、目の前に果てしなく広がっていた。朝の光を受けて、一面が淡い金色に燦めいていた。空は、四角い切れ端ではなく、地平の端から端まで、どこまでも青く続いていた。風が、頬を撫でた。塩の乾いた匂いがした。リナは、荷車の縁を両手で握りしめて、ただその広さに見入った。
涙が、出そうになった。理由は分からない。
「どうした、リナ」と、隣を歩く兄が心配そうに覗き込んだ。
「ううん」とリナは笑った。「世界って・・・こんなに、広かったんだね」
兄は、何も言わず、ただ少し目を伏せた。
旅の連れは、不思議な人たちであった。
杜瓦夫のガルドは、ぶっきらぼうだったが、リナの荷車の車輪を、出発の前に、何度も丁寧に診てくれた。「揺れねぇようにしといた。痛くはねえか」と。狼獣人のロウは、いつも、少し離れて周りを警戒していた。怖い顔をしていたが、リナが咳をすると誰よりも先に振り返った。隊商の娘のミラは、塩ノ原のことを、色々と教えてくれた。あの石は何、あの霧は何・・・と。
そして――あの、黄金の女性。
キサーラ、と云う名だと聞いた。
リナは、その人を初めて見たとき、不思議な心持ちがした。
巧く言えない。けれど、その人は他の人たちとは、何かが違っていた。リナは、長く病の床にいた。死というものを、いつも間近に感じてきた。だから、リナにはわかるのだ。生きているものの、温かい賑やかな気配と――そうでないものの、微妙な気配の違いが。
その黄金の人は、生きているものの賑やかさが希薄だった。代わりに、何か、もっと、深くて静かで遠いものを、纏っていた。
けれど、リナは怖くなかった。
むしろ、その静寂が、リナには、どこか懐かしく感じられた。
道中、休んだとき。リナは、その人の隣にそっと座った。
「あなたは」と、リナは、思い切って切り出した。「不思議な人ね」
黄金の人は、リナを見た。その金色の目は、近くで見ると底が見えない程深かった。
「不思議・・・ですか?」
「うん」リナは、頷いた。そして、自分でもなぜそう思うのか、分からぬまま、こう言った。「あなたとわたし、ちょっと似てる気がするの」
黄金の人の目が、僅かに見開かれた。
「・・・どうして、そう思うのですか?」
「えっと」リナは、言葉を探した。「上手く言えないけど。わたし、ずっと、病気で、世界の端っこに居たでしょう。皆が居る、温かい処から、ちょっとだけ離れた端っこに。あなたも――何だか、世界の端っこに、居る人みたいで。だから・・・仲間みたいな気がして」
黄金の人は、暫く何も言わなかった。
ただ、その目に、リナの知らない、深い、深い、何かが過ぎった。其れは、悲しみのようでも、驚きのようでもあった。
「・・・ええ」と、やがて、その人は静かに言った。「あなたの言う通りかもしれません、リナ。私も――ずっと、世界の、とっても遠い端っこに居ました」
二人は、それから暫く並んで、塩ノ原の風に吹かれていた。何か、会話したわけでもない。けれど、リナはその沈黙が、少しも嫌じゃ無かった。
白樹の森に着いたのは、塩ノ原を越えて、幾日かの後であった。
森は、塩ノ原とは、まるで別世界であった。見上げる程の白い幹の樹々が空を覆い、木漏れ日が葉々の間から、降り注いでいた。空気が、しっとりと清涼に薫った。リナは、こんなにも命に満ちた場所を、見たことが無かった。
森の入口で、一人の愛爾芙が待っていた。
セレナと同じ、尖った耳介を持つ静かな女であった。ニーヴ・・・と、セレナは彼女をそう呼んだ。古い友だと云う。
「この娘です」と、セレナがリナを紹介した。「胸を病んでいます。けれど、薬草でずいぶん保つようになりました。月神殿の手の及ばぬ処で看てやって欲しいのです」
ニーヴは、リナの前に膝をついて、その顔を覗き込んだ。そして、優しく微笑む。
「ようこそ、白樹の森へ。心配は無用です。この森は、あなたを守ります。森の精靈たちも――きっと、あなたの胸の重さを、少しずつ軽くしてくれるでしょう」
リナは、ほっとした。けれど、同時に判ってしまった。
これが、別れなのだ・・・と。
兄が、リナの傍に来た。
「リナ」と、兄は出来るだけ、明るく言った。「暫く、ここで待ってろ。直に戻る。森の愛爾芙は、優しいからな。ゆっくり養生してろ」
直に戻る。
リナは、その言葉が、嘘かもしれないことを知っていた。兄が、これから行くのが、危ない場所だということを、ずっと感じていた。もしかしたら、これが――今生の別れになるかも知れないことも。
けれど、リナは賢い娘だった。
だから、リナも嘘で応えた。
「うん」と、リナは咲った。精一杯の明るい声で。「待ってる。お土産忘れないでね、兄さん!」
兄の顔がくしゃりと歪んだ。一瞬だけ・・・。それから、兄は、誤魔化ように、リナの頭を乱暴に撫でた。その手が震えていることに、リナは気づいていた。けれど、気づかないふりをした。其れが、リナに出来る、たったひとつの優しさだった。
兄が、他の仲間たちの方へ行った後。
リナは、黄金の人を――キサーラを呼び止めた。
「キサーラさん」
黄金の人が、振り返った。
リナは、少し背伸びをしてその人に近づいた。そして、声を潜めて言った。
「兄さんを、お願いします」リナの声は震えていた。けれど真っ直だった。「兄さんは不器用で、すぐ、無理をするの。わたしの為に、毎度、無理ばっかりしてきた。だから――今度は、誰かに守ってほしい。あなたなら、世界の端っこを、知ってるあなたなら、きっと、できると思うから」
キサーラは、リナを見下ろした。
そして、膝を折って、リナと目の高さを合わせた。
「約束します」と、キサーラは、言った。その声は静かで、けれど、巌のように確かだった。「あなたの兄上を、必ず連れて帰ります。あなたの元へ」
リナの目から、遂に、涙が溢れた。
キサーラは、その涙を見ていた。そして、ほんの少し、逡巡ってから――まるで、人がするのを、見て覚えたようにぎこちなく――リナの細い肩にそっと手を置いた。
その手は温かかった。生きているものの温かさとは、少し違う、けれど、確かに温かい手であった。
一党が、森を去っていく。
リナは、ニーヴに支えられながら、その背を見送った。
ミラが、振り返って手を振った。ガルドが、ぶっきらぼうに頷いた。ロウが、ちらと目をやった。兄は――兄は、一度も、振り返らなかった。振り返れば、足が、止まってしまうことを知っていたのだろう。
そして、黄金のキサーラだけが、最後に一度、立ち止まって、リナの方を見た。
遠くて、その表情は、もう、見えなかった。
けれど、リナにはわかった。あの人は、約定を覚えていてくれる・・・と。
やがて・・・一党の姿は、白い樹々の向こうへ消えていった。
森に、静寂が戻った。
リナは、見上げた。
白い幹の遥か上、木々の梢の隙間から――半ばまで満ちた、青白い月が覗いていた。
その月は美しかった。けれど、リナは、なぜかその美しさが、ほんの少し冷たく感じられた。あの月の下を、今、兄たちが塩の果てへと歩いていく。誰も帰らぬと云う、白い死の地へ。
リナは、胸の前で両手を固く握りしめた。
そして、誰にも聞こえぬ、小さな声で祈った。
どうか、皆が無事で。どうか、兄さんがあの黄金の人とともに――必ず、帰ってきますように・・・と。
森の精靈たちが、その祈りを聞いたのか。
一陣の緑の風が、葉をさらさらと鳴らして、リナの頬を、優しく撫でて過ぎていった。




